KKK
特別アメリカに詳しいわけではない僕でも聞いたことくらいある危険な香りのする言葉。
つまりファスナーではない。
多くの人が思い出す光景は超怪しい三角白頭巾を被った白装束の集団ではないでしょうか。
聞いたこともない人は調べてみて欲しいところですが、KKKとはクー・クラックス・クランの略で簡単にいうと白人至上主義を掲げる秘密結社のことです。
白人こそ神に認められた唯一の人種であると主張し、黒人、アジア人、ヒスパニック系など他人種の市民権に異を唱え、デモ活動などを行っています。
犯罪行為まで行うのは一部なんでしょうけど、その思想を聞いただけで危険な香りがプンプンします。
そんなKKKにそのモロ排斥対象であるアフロ頭の黒人警察官が潜入しようとするトンデモ映画『ブラック・クランズマン』がついに公開されました。
監督はこれまでも『ドゥ・ザ・ライト・シング』や『マルコムX』などで黒人差別問題を鋭い視線で描いてきたスパイク・リー。
アカデミー賞では作品賞にもノミネートされていましたが、惜しくも同じ人種差別問題を扱った『グリーンブック』が栄冠を勝ち取り、『ブラック・クランズマン』は脚色賞の受賞にとどまりました。
そのことでスパイク・リーがキレて授賞式から帰ろうとしたことを知り、その衰えないスパイク・リーの暴れん坊ぶりに更に作品の期待値が高まりました。
KKKと黒人警察官という、ものすごいシリアスで重そうなテーマなのに予告を見る限り、タランティーノが撮りそうなコメディタッチの娯楽作品として撮られているんですね。
元々僕が好きな潜入警察モノでもあるので手に汗握るサスペンスやバイオレンス的な要素もあるんじゃないかとかなり期待して観てきましたよ。
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映画『ブラック・クランズマン』とは???
作品データ
原題 BlacKkKlansman
製作年 2018年
製作国 アメリカ
配給 パルコ
上映時間 135分
映倫区分 Gスタッフ
監督
スパイク・リー
製作
ジョーダン・ピール
脚本
チャーリー・ワクテル
デビッド・ラビノウィッツ
ケビン・ウィルモット
スパイク・リー
撮影
チェイス・アービン
美術
カート・ビーチ
編集
バリー・アレクサンダー・ブラウン
音楽
テレンス・ブランチャードキャスト
ジョン・デビッド・ワシントン / ロン・ストールワース
アダム・ドライバー / フリップ・ジマーマン
ローラ・ハリアー / パトリス・デュマス
トファー・グレイス / デビッド・デューク
ヤスペル・ペーコネン / フェリックス
コーリー・ホーキンズ / クワメ・トゥーレ
ライアン・エッゴールド / ウォルター・ブリーチウェイ解説
黒人刑事が白人至上主義団体「KKK(クー・クラックス・クラン)」潜入捜査した実話をつづったノンフィクション小説を、「マルコムX」のスパイク・リー監督が映画化。1979年、コロラド州コロラドスプリングスの警察署で、初の黒人刑事として採用されたロン・ストールワース。署内の白人刑事たちから冷遇されながらも捜査に燃えるロンは、新聞広告に掲載されていたKKKのメンバー募集に勢いで電話をかけ、黒人差別発言を繰り返して入団の面接にまで漕ぎ着けてしまう。しかし黒人であるロンはKKKと対面できないため、同僚の白人刑事フリップに協力してもらうことに。電話はロン、対面はフリップが担当して2人で1人の人物を演じながら、KKKの潜入捜査を進めていくが……。主人公ロンを名優デンゼル・ワシントンの実子ジョン・デビッド・ワシントン、相棒フリップを「スター・ウォーズ」シリーズのアダム・ドライバーが演じる。第71回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞。第91回アカデミー賞では作品、監督など6部門にノミネートされ、脚色賞を受賞した。
映画『ブラック・クランズマン』の感想&解説(すぐネタバレしてます)
まずはうんこ度(このサイトではどのくらいつまらなかったかで評価してます。ダメ映画=10)
3.5/10 最後の実際の映像は絶対いらなかった映画
もう今回の『ブラック・クランズマン』の感想において言いたいことはもうそれだけですね。
むしろそれしかないでしょう。
最後はいらないぞ!
いきなりラストの方に触れますが、電話でロンがKKK最高幹部デュークに「おまえが真の白人だと信じて話していた俺は黒人だったんだぞ」とネタバレをしてデュークを笑い飛ばす、なかなか爽快な展開が僕は好きだったんですよねえ。
暴力を駆使せず相手に一泡吹かせる、この重い題材の映画としては最高のバランスを保った展開でした。
部屋で1人デュークが呆気にとられている様子を引きで見下ろすような構図でとらえた画も僕好みのクスッと笑えるいいオチのような画だったと思うんです。
僕はここで映画が終わるのでも良かったと思ってるんですよ。
たしかその後パトリスのケツを触るクソムカつく同僚警官を懲らしめるシーンなんかが続くんですけど、それは電話の前に持っていくということで。
まあでも若干パンチは足りない気もするし、スパイク・リーの1番言いたいことには繋がらないんですけど、テンポ的にはここで終わるのがスッキリしてる気がします。
そして映画はまだ続き夜アパートにロンとパトリスがいると誰かが訪ねてきて、2人は銃を持ってドアを開けます。
するとこれは観てもらわないと説明しづらいんですがカメラはグイーンと窓の外に出て、十字架を焼く白装束集団をとらえます。
最後にとんでもない闇を見せショックを与える展開は好きですし、銃を構えたロンとパトリスの時空を超えたような画も良かったんですよ。
でも問題はこの後なんです。
白装束集団が十字架を焼いている画の続きであるような感じで映画は現実の映像に繋がります。
2017年のヴァージニア州におけるユナイト・ザ・ライトの白人至上主義者の行進が突如映し出され、次にその中の1人がそれに反対したデモの列に車で突っ込み女性1人の命を奪ったこと、そしてそれをトランプ大統領が「どっちも悪かったしね」と言い捨てるという地獄のような世界の現実、実情が実際の映像と共に僕らに投げかけられます。
そして反転した白黒のアメリカ国旗が無音で映し出されたときには劇場内シーンでした。
ずーん。
見事に重苦しい空気になってました。
真っ暗なのにそんな空気を感じることはなかなかなくて、その劇場内の空気感にも驚きました。
ものすごく強いメッセージ性が込められていて、現在も出口の見えない差別と憎悪に満ちた世界に思いを巡らせましたよ、僕含めおそらく観客全員が。
シリアスになりそうな題材を面白おかしく見せてくれた後ということもあり、その落差にかなりやられてしまいました。
でもですよ、これはいらなかったでしょー。
完全な蛇足だと思いました。
あの最後の実際の映像の引用で確かにすごく伝わりましたし、考えさせられましたよ。
観客を楽しませておいて、最後には考えさせるというのは最高の誘導だと思います。
でもそれまでのフィクション部だけでもスパイク・リーが黒人の立場、権利、正当性、被害者意識だけを主張しようとしていないことも分かったし、その黒人も白人にも平等で一歩引いて世界を眺める本編の描き方は本当に良かったと思うんです。
なのでそこまででも絶対伝わるものはあったし、そこから先は観客の想像、思考を信じるべきだったと思うんです。
映画って現実の時間、空間を切り取った作り物だと思うんです。
映っているのは現実なんだけど確かな現実ではない。
そんなところが良いと思うんです。
そして今作のデュークの電話の画までのフィクション部分のように、言いたいこと、表現したいことを面白おかしく笑いやサスペンスを混じえ作り物の娯楽として提示し、その裏にメッセージをそっと忍ばせる、それが表現だと思うんですよ。
これは映画に限ったことではないし、この忍ばせるという表現も正しいのか分からないんですが、直接言わないというのが表現だと思うんです、僕は。
メッセージ性なんてあってもなくてもいいと思うんですが、今回のスパイク・リーのラストの引用はあまりにも直接的すぎて、せっかくのそこまでの娯楽としての表現が台無しになった気がしたんです。
もうまんまじゃないですか。
もちろんそこまでの映画のフィクション部分があるから、あのラストの引用でみんな感じるところがあるわけですが、それって映画館を出た後に個々が調べて辿り着くべき領域だと僕は思うんです。
ゴダールみたいに引用した映像を訳分かんないくらいごちゃ混ぜにしてコラージュ的なモンタージュで新しい次元の何かを生み出そうとかというのとは違うじゃないですか。
僕はデュークに人泡ふかせる電話シーンで終わっても十分だとは思うんですが、もしスパイク・リーが想定したように観客を楽しませた後、バッと現実に眼を向けさせるという社会派映画の理想形のような形にするなら、その方法はロンたちの活躍の延長線上であって欲しかったです。
『幕末太陽傳』(1957)の幻のラストは主人公佐平次が江戸の墓場から走り出すと、セットを飛び出し1人現代人が行き交う北品川まで来てしまうという斬新な展開だったらしいんですが(僕はさっきまでこの幻のラストを本当のラストだと思いこんでました。おそらく初鑑賞した時この幻のラストのエピソードを読んで頭の中でこのラストシーンを完璧に想像してしまっていたんだと思います)、これくらいぶっ飛んだ展開でも良かったと思うんです。
だからあのままアパートの廊下で銃を構えたロンとパトリスがグイーンと時空を超えて2017年に飛んできて、ヴァージニア州の夜のデモや、反対デモでの惨劇を目撃して立ち尽くすという展開にも出来たと思うんです。
今書いててそれが1番衝撃的だし、映画としても正解だったんじゃないかと思いました。
その他にはデュークとの電話を切り大笑いするロンとフリップがふと気づくと現代のヴァージニア州に時空をすっとんできていて、人種差別の凄惨な現場を目撃して顔を見合わせて終わるみたいなショッキング展開にしても良かったんじゃないかと。
アメリカン・ニューシネマを観た後のような鬱な気分にまで行ってしまいそうですが、とにかく僕はそういうフィクション映像で表現してほしかったです。
ほんと惜しかったし、それが残念でした。
もうそこまで直接的なことするなら映画じゃなくていいじゃんで思っちゃいました。
スパイク・リーも久しぶりの人種差別を扱った映画ということで、原作自体も気に入って力が入っちゃったんですよね、きっと。
『ブラック・クランズマン』の良かったところ
ということで1番言いたいことは書いちゃったんで、あとは薄い感想しか残ってないんですがまあ面白かったですよ。
重くなりがちな展開をとぼけた人物たちが和らげクスッと笑える娯楽作になってました。
みんな真面目な顔してるけどどこか抜けている空気が良かったですね。
特にアダム・ドライバーのやる気あるのかないのか分からない、なんで自分はここにいるのか分かってないようなフリップが良かったです。
最初は後輩のロンに丸め込まれてなぜか1番危険な役回りになってしまう流されて生きてるようなぽわーんとした空気感が出てるんですが、段々KKKに差別される側のユダヤ系という自分のアイデンティティを意識し始めキリッとしていくんですよ。
多分演技レベルでアダム・ドライバーが特別なことをしていないのが逆にいいんですよね。
ストーリー展開でそう勝手に観客が変化を感じられるように見せているんだと思います。
あとはKKKのコロラド・スプリングス支部の面々が良かったですねえ。
あの田舎特有の閉塞感から悶々としているアングラな人間たちの怖さや、その対極にある間抜けな感じが絶妙に表現されていました。
ウォルターのハッタリ感と胡散臭さも見事でしたけど、フェリックスとコニー夫婦が最高でしたね。
特にコニー。
ああいう怖い太ったおばさん本当にいますよね、日本にも。
一見明るくて人当たりはいいんだけど、思い込みが強くて急にヒステリックになり手がつけられなくなる感じ。
僕はフェリックスよりコニーの方が10倍怖く見えました。
KKKが完全な悪で、黒人たちが善みたいな描き方じゃないのも良かったですね。
KKKが入会の儀式を行う場面と並行して黒人の老人が黒人学生たちにジェシー・ワシントン事件の話をする場面が描かれ、それぞれ「ホワイト・パワー!」、「ブラック・パワー!」と叫び決起します。
なんだ、どちらも同じじゃねーかと。
そういう意図でスパイク・リーは演出したんじゃない気もするんですけど、そもそもホワイト、ブラックと言い合っているうちは何も変わらないぞと思わされるんですよ。
自分のアイデンティティを認識するのは大切なことだとは思うけど、自分は白人だから、黒人だからという帰属意識が全面に出ることが問題なんじゃないかと思わずにはいられませんでした。
憎むべきは人種差別主義者であって白人という括りではないと思いますし。
そんな風に全体を通して白人=悪い、加害者、黒人=善、被害者みたいに描かれていないのが良かったですね。
問題意識、メッセージ性は強く感じるのにその人間の描き方は絶妙なバランスで過激になりすぎていないのはうまかったですね。
『ブラック・クランズマン』の物足りなかったところ
でももうちょっとハラハラする映画になっても良かったと思うんですよね。
黒人と白人の英語の発音の違いなんか分からないですけど、明らかにロンとフリップの声を演出レベルで似せようとしてないんで、もっとバレそうな展開があっても良かったと思うんですよね。
まあ常にフェリックスはフリップを疑ってるんでハラハラするだろってことなのかもしれないですけど、ロンもフリップも警察はみんなぼけーとしてるというか余裕がありすぎてそんなドキドキしなかったんですよ。
これはアダム・ドライバーの醸し出す空気のせいなのかもしれないし、その危ない場面にも流れるゆるい空気は狙いだったのかもしれませんが、もうちょっとメリハリが欲しかったなあなんて思いました。
ラストの爆発に関しても、コニーもフェリックスもバカだから自爆するという展開はすごく好きだったんですけど、そこに至るまでもうちょっとサスペンスやアクションが観たかったなあって思うんですよ。
だって主人公であるロンてKKKに電話する、パトリスを口説く以外ほぼ何もしてないですよ笑
その非暴力感が大切なのかもしれないですけど、これは娯楽映画ですからねえ。
主人公にもうちょっと活躍して欲しいところですよ。
……
あーでもそれじゃあやっぱその他の映画と同じになってしまうからダメなのかあ…
この映画は主人公が『黒いジャガー』のようなブラック映画のヒーロー像と違うのが良かったのかもなあって思ったり…
ブレブレの感想ですみません。
1番印象に残っている画
最後に僕がこの映画で1番好きだった画のことを。
冒頭の方でブラックパンサー党の集会があるんですけど、そこでクワメの話を聞く黒人たちの顔のインサートの画がすごく面白かったんです。
クイーンの『ボヘミアン・ラプソディ』のMVみたいな暗闇に浮かび上がる顔がすごく良かったんですよねー。
みんな何とも言えないうっとりした表情をしていて、現実かどうか分からないようなギャグみたいな編集がされているんです。
あれは馬鹿な僕には分からないネタ元や意味があるのかもしれないんですけど、その他の画はけっこう忘れましたけど、これとロンのエア空手とデュークの部屋で1人ポカーンの画はすごく印象に残ってます。
おわりに
”最後の実際の映像強すぎる問題”で、映画の細部が記憶にあまりないのが残念なんですがまあまあ楽しめた映画でした。
スパイク・リーの真面目な問題を真面目に描かず娯楽として提示する姿勢はすごくかっこいいですよね。
ちょっと今回は最後やりすぎましたが、人種差別を扱った映画として『グリーンブック』より評価が高いのが分かります。
すごく平等だったし、楽観的でもないし、どうすればいいのかをすごく考えさせられます。
その解決の糸口になりそうなことも提示してますし。
でも僕からすると『グリーンブック』はそもそも人種差別を扱った映画ではないので比べること自体無意味だと思うんですよね。
テイストも違うし、目指す方向性も違うと思うんですよ。
個々の映画に関して論争が起きるのはいいと思いますけど、『グリーンブック』と『ブラック・クランズマン』を人種差別の描写の観点から比べて論争が起きるとしたら、それこそまた人間の過ちに繋がっていくんじゃねーの?なんて思ったりしました。
映画は映画でしかないんですから。
完
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