「全米が泣いた」
「アカデミー賞最有力」
「衝撃のラスト○分を見逃すな」
などなど映画にはクソみたいな宣伝文句が数多くある。
泣けたら何でもいい映画なのか、アホが。
他人が勝手に決めた賞とったら面白い映画なのか、ばーかばーか。
「どんでん返しがすごい=すごい映画」ってうんこみたいな公式作んじゃねーよ、たーこたーこ
などなどいくらでも小学生みたいな文句が言える。
そんなこと言われて映画観たくなる人たちの気持ちが分からん!
まあ僕くらい自分というものをしっかり持っている人間は、こんな馬鹿な宣伝文句にそう簡単には流されない。
あれは先日デイミアン・チャゼルの『ファースト・マン』(2018)を観に行ったときのこと。
本編上映前の予告で観たのは、冷たい空気が漂うデンマーク映画。
オペレーターの男がひたすら喋っているだけの映画という、これまでにもないわけではない映画。
どうやら男が話す相手は誘拐された被害者のようで、その電話だけを頼りに犯人を探す、おそらくどんでん返し系の映画。
そんなくだらないものはいつか観るとしても、DVDスルーだ。
そして予告の最後に出た宣伝文句。
「米レビューサイト ロッテントマト 驚異の満足度100%」
……。
2月22日朝10時現在、僕はスクリーンを前に座っている。
「米レビューサイト ロッテントマト 驚異の満足度100%」のデンマーク映画『THE GUILTY ギルティ』を観るために。
決して宣伝文句に釣られたわけではない。
ロッテントマトの満足度なんて気にする価値もない。
それに引っ張られるなんて、笑ってしまう。
そんなことがこの僕に起こるわけがない!
……
……
決してそれだけじゃない、それだけじゃあ…
ということでなぜか観たくてしょうがなくなってしまった映画『THE GUILTY ギルティ』のこと書いていきまーす。
『THE GUILTY ギルティ』とは???
作品データ
原題 Den skyldige
製作年 2018年
製作国 デンマーク
配給 ファントム・フィルム
上映時間 88分
映倫区分 Gスタッフ
監督
グスタフ・モーラー
製作
リナ・フリント
脚本
グスタフ・モーラー
エミール・ナイガード・アルベルトセン
製作総指揮
ヘンリク・ツェイン
撮影
ジャスパー・J・スパニング
編集
カーラ・ルフェ
音楽
オスカー・スクライバーンキャスト
ヤコブ・セーダーグレン / アスガー・ホルム
イェシカ・ディナウエ / イーベン
ヨハン・オルセン / ミカエル
オマール・シャガウィー / ラシッド
映画『THE GUILTY ギルティ』の概要
映画『THE GUILTY ギルティ』のあらすじ
『THE GUILTY ギルティ』の解説&評価(重要なネタバレあり!)
『THE GUILTY ギルティ』
4.0/10うんこ (10うんこ=クソ映画)
同僚には優しく接しようと思わされる映画
Rotten Tomatoes 驚異の100%評価通りの大満足映画かと言えば、全然そんなことないわけだけど、最後まで観るとまあすげー良く出来てるなあって感心する映画だった。
んー、でもなんとも評価が難しい映画だ。
今回の感想の論点はもうね、1つだけ。
それは何かと言うと、やっぱり映画は空間を飛ばないとダメだと思うのだ。
映画『THE GUILTY ギルティ』映画と空間移動
僕は、映画という表現方法のすごいところは空間、時間を自由自在に飛んで、それを視覚情報として観客に与えることだと思っている。
それが映画に許された最大の特徴というか、そうだからこそ映画だと言えるんじゃないかと。
そんなこと言ったら元も子もないけど、もしかしたらこの映画は新たな境地に達しているのかもしれないという期待があった。
実際鑑賞してみると、前評判通りたしかに緊張感はあるし、惹きつけられる。
でもね、やっぱり僕は途中でどっかに飛んで欲しくなってしまう。
あー息苦しい、広い画が観たい。
ここでバッと景色が広がったらなんと素晴らしい快感なんだろうかと。
この視覚的に空間を飛ばない、音による想像だけの緊張感がこの映画の肝なんだと分かっていても、途中で不満を抱いてしまった。
それにこの緊張感て、まあ当たり前っちゃあ当たり前というか。
音のみによる緊張感がどれだけすごいかなんてもうとっくに分かってることだ。
要は目隠しされたようなものだから。
もちろん脚本や見せ方がうまいから、その緊張感が増幅され持続するんだろうけど。
映画『THE GUILTY ギルティ』が描きたかったことは?
とここまで書くとすごく否定的に聞こえると思うんだけど、それがそうでもないから整理しきれなくて困っている。
この手の1シチュエーション映画って必然性を感じないというか、ただただ今までにないこと、奇をてらったことをやろうとした結果そうなったみたいな感じがすることが多いのだ。
結果中身スッカスカの「映画とは言い難いもの」になる。
そして先述したように、そもそも僕の考えだと1シチュエーションは映画には不向きだ。
映画最大の魅力を自ら殺すわけだから。
自殺するようなもんだ。
『THE GUILTY ギルティ』も中盤くらいまではそのカテゴリーの映画かなと思っていた。
どんでん返しがあるとしたら、まあこの電話かけてきた女が実は被害者ではない、というくらいは予想できちゃうし。
そもそも誘拐されてるのに犯人いるところで電話かけれるの変だなあってすぐ思っちゃうだろう。
やっぱりこの映画もそういうどんでん返しがウリの、そこが予想できちゃったら全てが終わりのしょうもなしょうもな映画だと思っていた。
でも今作は違った。
この映画において「この事件の犯人というべき人間は電話をかけてきた女性だったー!!!というかむしろ事件自体アスガーの早とちりだったー!!!!」なんて事実はどうでもいいことだったのだ。
この映画が描きたかったのは電話の向こうで起きている事件なんかではないのだ。
この映画が描きたいのは電話のこちら側、つまり主人公アスガーが起こした事件についてなのだ。
もっと言うとアスガーが起こした事件についてというより、1人の人間が自分の犯した罪に正面から向き合えるようになるまでの葛藤、過程についてなのだ。
アスガー自身が犯罪者だったという事実がこの映画の最大の驚き、どんでん返しなんだろうけど、そこもあれだけ訳ありな感じで描かれると、そう驚かない。
でもそこに驚くかどうかなんてどうでもよくて、電話の向こうの顔すら分からない人間を救おうとする過程において、アスガー自身が人間性を取り戻していき、最終的には自分自身を救うことになるということが重要なのだ。
映画『THE GUILTY ギルティ』が1シチュエーション映画になった理由
アスガー自身を救うと書いたけど、彼はこの後おそらく社会的な罰を受けることになる。
でもそれは自分の犯した罪に向き合い反省し、人間として正しい道に踏み出そうとする行為だ。
つまりこれは1人の人間の再生の物語なのだ。
だからタイトルは『THE GUILTY ギルティ』。
それをふまえると、この映画は奇をてらってアスガー1人を映し続けたわけでは全然なくて、むしろそうするしか無かった、そうじゃなければ表現できなかったという表現の必然性みたいなものを感じるのだ。
更にその1人の人間の心の葛藤、再生への過程を、全く別の事件を通してハラハラドキドキさせながら、娯楽として観客を楽しませながら描いたのが凄いなあと思う。
その事実に気付かされたラストシーンを観た時は感心してしまった。
良く出来てるなあ、うまいなあと思わずにはいられなかった。
んー、でもやっぱりそれと同時に映画ならではの空間の飛躍、背景の変化、場面転換なんかも楽しめたら…
いや、でもそれだとこの映画の良さを消すことになってしまう…。
んー
んー
とそんな感じで、よく出来てるなあと評価しているのに、同時にそれが故の映画としての物足りなさも感じてしまうというなんとも悩ましい感想になってしまった。
ほんとこれ書いている今でも好きだと心から言えないどっちつかずな気持ちが、なんとも消化不良な感じで気持ち悪い。
終わりに
結局中途半端な感想になってしまい申し訳ありません。
でも今まで見たしょうもない1シチュエーションものと比べたら数倍いい映画だと思った。
まあ監督のインタビュー読んでみると、音にこだわったとか、音による想像力がどうたらこうたらと、どうでもいいことばかり言ってたので意図した結果としてこうなったのかは定かじゃない。
だからこそ次回作が非常に楽しみだ。
ハリウッドで雇われ監督などやらずに本当に自分が撮りたい企画をNetflixでもいいのでやってほしい。
そういえばアスガーは散々周りに悪態ついてたくせに、いざちょっと助けてほしいことがあるとその時だけ態度をころっと変えて調子いいこと言って「にゃーん」と助けを求める。
そんなところが僕に似ているなあと嫌な気持ちにさせられた映画だった。
今回は短めに。
おわり