僕がこの記事を最初に書いたときにはまだノミネート段階だったアカデミー賞作品賞。
なんとそのまま獲得してしまった…
ポン・ジュノ監督作『パラサイト 半地下の家族』の話だ。
本当にびっくりした。
まず作品賞て非英語圏の作品が対象になりえることすら知らなかった。
これがポン・ジュノの過去作品『スノーピアサー』ならまだわかる。
『スノーピアサー』はポン・ジュノの看板俳優ソン・ガンホを連れて行ってはいるが、主演は『アベンジャーズ』のクリス・エヴァンスであり、海外資本の入ったハリウッド作品といってもいいものだったから。
ところが『パラサイト 半地下の家族』は海外資本こそ入っているが、言語はオールハングル、舞台もオール韓国の純韓国映画なのだ。
おそろしい快挙であると同時に、明らかなアカデミー協会の多様性への意識の表れ。
あからさますぎるだろ。
「そろそろさあ、英語以外の作品一番にしといたほうが良いんじゃない?」
「そうだねえ、バカどもがうるせーからなあ」
「バカどもって笑」
「ハーハッハッハッハ」
そんな高笑いが聞こえてきそうだ。
『パラサイト 半地下の家族』は十分楽しめたが、正直ポン・ジュノの過去作品『殺人の追憶』、『グエムル−漢江の怪物−』、『母なる証明』に比べればインパクトがないと思った。
どうせ獲るなら『母なる証明』が穫れば良かったのに。
最近は特に社会問題が入ってないとダメみたいな空気があってつまらない気がする。
映画に社会問題が入ってたって何かが変わるわけじゃないのに。
なんて言ってはこの記事が元も子もないけど、『パラサイト 半地下の家族』について感想、解説します。
『パラサイト 半地下の家族』とは??(まだネタバレなし)
『パラサイト 半地下の家族』
2019年製作/132分/PG12/韓国
原題:Parasite
配給:ビターズ・エンド監督
ポン・ジュノ
脚本
ポン・ジュノ ハン・ジヌォン
撮影
ホン・ギョンピョキャスト
ソン・ガンホ
イ・ソンギュン
チョ・ヨジョン
チェ・ウシク
パク・ソダム
イ・ジョンウン
チャン・ヘジン
チョン・ジソ
『パラサイト 半地下の家族』のあらすじやキャスト
あらすじ超ざっくり書くと
半地下の粗末な家に住む失業中の一家4人が、あるチャンスを機に知恵を絞って裕福な一家に別々の職種で就職しようと画策するというもの。
その職にありつくまでの主人公一家の様子をユーモアを交えスリリングに描いているのだが、その様子はまるでパラサイト=寄生虫なのだ。
しかしこれでしばらく生活は安泰だと思った矢先、裕福な”家”には驚くべき秘密があって主人公一家は大ピンチに!みたいな展開。
その主人公一家の父を演じるのはいつもどおり安定のソン・ガンホ。
ポン・ジュノ作品『殺人の追憶』、『グエムル−漢江の怪物−』で主演、『スノーピアサー』で助演をしている常連俳優だ。
その他にもパク・チャヌク監督作『復習者に憐れみを』やイ・チャンドン監督作『シークレット・サンシャイン』などに出演する韓国を代表する俳優である。
監督についてはネタバレありの方で後述します。
『パラサイト 半地下の家族』はネタバレ厳禁???
『パラサイト 半地下の家族』のネタバレ評価、感想
『パラサイト 半地下の家族』3.0/10うんこ (10うんこ=クソ映画)
時計回りにお願いしたくなる映画
おもしろかった!
面白いんだけど、これがパルム・ドールにアカデミー作品賞かー。
うーん。
なんかなー。
そう思うとそこまでだったのかなあていう気もしてくる。
ポン・ジュノ作品は日本では今までそんなヒットしてなかったのに、『パラサイト 半地下の家族』は変にヒットして評価高くなっちゃったから、ひねくれてるだけかもしれない。
今までこっそり見つからないように応援していた芸能人がブレイクしてしまった時の複雑な気持ちに近いのかも。
バランスの人、ポン・ジュノ
改めて本当にポンジュノはバランスの人だと思った。
これまで監督した作品、『殺人の追憶』(2003)、『グエムル−漢江の怪物−』(2006)は韓国本国において観客動員の記録を塗り替えるような大ヒットを生み出したかと思えば、ごっそり映画賞までもかっさらっていく。
とんでもなく欲張りなわけだが、この大衆にも批評家にもウケる娯楽映画を生み出せる無双っぷりは、韓国映画が国から受けるバックアップが日本よりは強いことを考慮しても、実写邦画界からすれば奇跡ですらあると思う。
僕がポン・ジュノ作品で一番好きなのは『母なる証明』だ。
何回も言うが正直僕は『パラサイト 半地下の家族』より好きだ。
よく宣伝文句で”魂が震える”みたいな、よく分からないものがあるが、僕は『母なる証明』を観た時そんな感覚に襲われた。
興奮状態で座席を立つのを忘れるような状態。
話の芯はそれこそ”息子を思う母の愛”なのだが、それをミステリー仕立てで先の見えない展開でグイグイ引っ張る。
しかしすごいのはストーリーというより、一つ一つの画にあり、「なんだ、これは?」という画の目白押しなのである。
とこのままだと『母なる証明』の記事になりそうなのでここまでにするが、得体の知れないモノに出会えるので、是非これを機に多くの人に見てほしい。
と話が逸れたが本作『パラサイト 半地下の家族』も何はともあれ"面白い"。
この”面白かった”という感想はあまりにも凡庸で抽象的で人によって意味合いが違う表現である。
だがどんな映画製作者であっても鑑賞後に観客に感じてもらいたい極上の感想はこの単純な”面白かった”であるはずで、邦画の批評家受けする作品と大きく違うのはここだと思う。
ちゃんとエンターテイメントとして成立しているのだ。
観客に驚き、緊張、笑い、涙をこの上なくバランス良く提供し、かつその中に絶妙に韓国を蝕む病理を織り交ぜてくるのだから本当に感心してしまう。
鑑賞中から”面白いなあ”と思わせ、鑑賞後にはあれはどういう意味だったのかと様々な考察まで強いてくる。
んー本当に恐ろしいバランス感覚だなあとため息ついてしまう。
以前読んだ黒沢清監督との対談で「韓国映画は本当に色んな制約があって、日本の映画監督が羨ましいですー、ハハハ」なんておいおい、皮肉か?と思うような発言もしていたけど、こんなに好き勝手やって(いるように見える)大ヒットを飛ばし、そこそこお金を儲け、名声まで手に入れるのだから日本の映画人たちはあのモジャモジャを引っ張りたくなっているに違いない。
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ちなみに先程から欲張りとか好き勝手言ってるけど、インタビューやメイキング映像、そして僕は実際に試写会でポン・ジュノを見たことがあるんだけど、それらを見る限りとにかく腰が低くて心から映画大好きって感じの人なので誤解されずに。
映画選びの参考にどうぞ!ポン・ジュノが選ぶオールタイム・ベスト10
韓国映画初のカンヌ、パルム・ドールと是枝裕和『万引き家族』の"差"
今作は米アカデミー賞でアジア初の作品賞にノミネートされたらしい。(※そのまま獲っちゃいました)
アジア作品でもその対象になり得るのかとその事実に何よりも驚いたが、今作が注目されるきっかけになったのはアカデミー賞より、まずはカンヌ国際映画祭で韓国映画初の最高賞パルム・ドールを受賞したことだ。
この前年のパルム・ドールが日本の是枝裕和監督『万引き家族』。
2年連続アジア映画に与えるなんて、お互いを意識させて更なる国家間の関係悪化を狙っているのか、なんてポン・ジュノ映画のようなアメリカ陰謀論を勘ぐりたくなるけど、まあ本当に喜ばしいことだと思う。
でもこの2作品はアジア映画てだけでなく"家族”がテーマという共通項があって、厳密には全然違うから比べる事自体お門違いなんだけど比べずにはいられない。
そこでさっきの話に戻ると、やっぱり『万引き家族』って鑑賞後"面白かったー”ってなるかというとそれとは違う。
是枝さんの作品は映画としての強度も凄まじくて、鑑賞後の”映画観た感”も高いんだけど"面白かった"という表現とは違う気がする。
そんなニュアンスの違いなんて他人からすれば知ったこっちゃないが、僕の中では映画として『パラサイト』の圧勝という感じだ。
まあもう単純な好き嫌いの話になっているが、映画なんてそれで判断されてしまう残酷なものだからしょうがない。
何が違うのかというと『万引き家族』は映画として真面目すぎるんだと思う。
優等生的できれいにまとまっていて、「家族とは何か、血の繋がりとは何か、安藤サクラの顔は変だ、現代日本に根付く社会問題はこれだ」なんて事柄を否が応でも考えさせてくる。
変な顔だとか言ったけど安藤サクラの取り調べシーンにはハッとさせたれたし、ラストの決別シーンはよく分からない感情になったし、松岡茉優の水着には興奮したし、歯がない樹木希林はなんでいつもそんな自然に画面に存在してられるのか不思議でしょうがなくなったものだ。
でも『万引き家族』にはどこか隙がないんだと思う。
それは破綻がないということだ。
リリーフランキーなんてふざけた事するし、樹木希林の独特なユーモアもあるし、是枝さんもどこかで笑わせようとするところがあるんだけど、頭が良すぎる人が作る笑いというのか…
ずっと背筋をのばしていなければならないような、息苦しさを感じるのである。
あくまで僕の感覚でね。
(そういう面から僕の一番のお気に入り是枝作品は『歩いても 歩いても』。樹木希林無双が観れます。おすすめ)
とはいえ、ポン・ジュノだってコーエン兄弟なんかに感じるインテリが作る映画臭はすごい。
「どーだ、面白いだろう?」というちょっと上からの自意識みたいな匂い。
プンプンしてくる。
でもどこか作り手たちの気持ちの余裕を感じるのでもっと楽に観れる。
何も考えず映画を観たいときだって誰にで、そんな時だってポン・ジュノの映画は受け入れてくれる気がするのだ。
「ソン・ガンホと同じようにアホ面をして観てもいいよ」とでも言ってくれているような間口の広さを感じる。
常に真面目にふざけている空気が画面を覆っている。
そこでようやく冒頭に記した「時計回りでお願い」に触れるのだが、この映画後半にさしかかるところで登場するこのセリフに僕は完全にやられてしまった。
笑うと同時に驚いた。
完全に視界の斜め上からやってきた不意打つそのセリフに、なんでこんなことを思いつくのかと心底驚いたのだ。
「”時計回り”というのが何か重要なキーワードなのでは…」なんてアホな深読みをしたり…
結局そこには多分何一つ意味はないのだが、禍々しい雰囲気に満ちたフレーム内で繰り広げられるシリアスな物語にそこはかとなく漂い続けるユーモア。
このバランス感こそポン・ジュノ作品の魅力であり、『パラサイト 半地下の家族』が無双状態になった一因だと思う。(政治的な企みは別にして)
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『パラサイト 半地下の家族』の元ネタともいえるキム・ギヨン監督作『下女』を解説
正式に元ネタというわけではないが、おそらくポン・ジュノが『パラサイト 半地下の家族』を作るのにものすごく影響を受けたであろう作品がある。
それがキム・ギヨン監督の1960年作品『下女』(げじょ)である。
げじょ
これ書くまで"したおんな"とか"しもおんな"と何となく読んでいたが、"げじょ”
日本語でもなんか良くない響きだ。
ポン・ジュノは韓国の映画監督の中では特にキム・ギヨン監督の影響を受けているらしい。
この『下女』は当時韓国内で大ヒットしたらしく今では韓国映画の最高傑作に位置づけられている。
ポン・ジュノはオールタイムベスト10作品としても挙げているくらい好きらしい。
話としては
ピアノ教師の裕福な一家で下女、つまりメイドをすることになった女が、主人を誘い込み肉体関係を持ったことで家の中での立場をどんどん強めていくというもの。
もうこれだけで『パラサイト 半地下の家族』のようだが、朝鮮戦争後の社会格差をテーマにしている点など共通点は多い。
裕福な一家の家族構成も一緒だし、土砂降りの天気や"縦方向"を意識した画面づくりなども共通している。
特に裕福な一家の新居の階段は実に映画的なモチーフであり、第2の主役と言ってもいいくらい印象的だ。
『パラサイト 半地下の家族』でも階段は重要なモチーフだ。
家の中だけでなく街にも巨大な階段が出てきており、画として強烈に格差を印象づける。
まあ『パラサイト』云々よりも、この『下女』という映画はとにかく強烈だ。
監督したキム・ギヨンは”韓国映画界の怪物"と言われているらしいのだが(もう故人ですが)、観るとほんと納得する。
もうこの”下女”がとにかく狂気的、猟奇的でほんとに恐ろしいのだ。
終身刑を食らい牢獄で一生暮らすことになると想像した時のような恐ろしさ。
こんなのにパラサイトされたら、頭おかしくなりそうだ。
特に終盤の階段の画が笑ってしまいそうなほど強烈なので是非観てもらいたい。
そのあともびっくりするようなオチがあったり…
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『パラサイト 半地下の家族』【解説】見える"境界線"階段と窓
階段
先程『下女』で書いたようにこの『パラサイト 半地下の家族』では、階段が重要な役割を担っている。
この映画と書いたが、実は階段は映画一般を見る上で非常に重要な要素だ。
映画は画面という目で見えるものであらゆることを表現していくメディアなので、高さの概念というのは非常に分かりやすく、人間関係、気持ちなどの優劣を表現できる。
『パラサイト 半地下の家族』では家の中から街中、そしてトイレとあらゆるところで印象的な階段が登場する。
階段は韓国に構築されてしまった資本主義社会の階級差を目に見える境界線で意識させると共に、階段の機能を使って人物の未来、立場を意識、暗示させる。
ギテクたち半地下の家族は自らの意思で階段を上る場面はほぼなく、下る場面ばかり印象に残る。
一方パク社長一家は階段を上がる場面が印象に残るように撮られている。
そういった上下の意識はリビングでの性行為の場面でも見られる。
とにかくギテク一家は無意識に下へ下へと追いやられてしまうのだ。
そしてパク社長たちは下には一切関心がいかないためギテクたちに気づくことはない。
これは嵐の夜の街のことでも言える。
同じ街の中で多くの人間が被災していてもパク社長たちには関係ない。
息子の誕生日パーティが大事だ。
しかしこれは決して悪意ではない、ただ無関心なだけなのだ。
無関心というのがこの映画最大のモンスターなのかもしれない。
そして『下女』の同様、『パラサイト 半地下の家族』でも階段は人が死ぬ場所としても象徴的に使われている。
ギテクとパクの窓
階段の他にもう一つ印象的なのが窓だ。
キム・ギヨンの『下女』にも窓は登場する。
下女は窓を乗り越えて主人に不幸をもたらすのだ。
『パラサイト 半地下の家族』ではファーストカット、ラストカットは窓だ。
半地下のという世界、立ち位置を意識させると共に、ギテクが観ている世界を表す。
またパク社長も大きな窓を持っている。
ギテクが開かれた見たくないものまで見えてしまう窓であるのに対し、パク社長は木に囲まれ見たいものしか見えない窓だ。
これは2人の外の世界への意識の象徴でもある。
ギテクは流されるように生きる、ある意味達観した開かれた意識の象徴であるのに対し、パク社長は他人との間に明確な距離感、境界線を持っていることの象徴だ。
また『下女』と同じようにその窓という境界線を破って不幸はやってくる。
ギテクの家を壊滅させる水も、ギテク、パク社長を破滅へと導く”地下の住民”も窓を超えてやってくるのだ。
素晴らしい景色であったはずの富の象徴のような窓の景色が、最後には地獄絵図に変わるのがなんとも不条理だ。
車の中
ギテクとパク社長の間に明確な社会的地位の境界線は車の中でも表現されている。
彼らは別々に映し出され、同じ空間にいるのに決して一緒になることがない。
また常に同じ方向を見ていて、顔を合わせることがない。
同じ運転シーンでもパク社長の妻を乗せているときは同じ画面に収まるように撮られている。
これはギテクとパク社長の一家の主、人間としての生き方の隔たりを表しているのだろう。
同じように家族を愛する人間が決して相容れることがない社会なのだ。
そう考えるとラストの悲劇の前に、インディアンの格好をしたギテクとパク社長が同じ立場で並ぶ段取り確認の場面は物悲しい。
2人が境界線を超え向かい合い、同一の画面に収まった途端、2人は決裂し悲劇は起きるのだ。
『パラサイト 半地下の家族』「時計回りにお願い」の意味とは
僕が衝撃を受けたヨンギョのセリフ「時計回りにお願い」。
ギテクたちが見つかるんではないかという緊張感の中、息子を見守るはずのパク夫妻がいきなり繰り出す愛撫に、爆笑してしまうが、改めてこの「時計回り」とは何なのだろうか。
監督はインタビューで「この気まずいシーンが早く終わってくれと思ってほしかった」と言っていたらしいが、このセリフのことをピンポイントで言ったわけではないだろう。
”早く時間を進めたかったから時計回り”なんて後付けだろう。
ポン・ジュノ映画のような緻密な映画を観ていると、人はなんでもかんでも意味を見出そうとする。
「映画にはメッセージがある!」
「全てに意味がある!」
と本気で信じている人もいるようだ。
だが確実に全てに意味はない。
これは断言できる。
映画は2時間前後も尺があるのだ。
その間に常に全てにメッセージを込め、撮影という現実との戦いを超えるなんていうのは不可能だ。
たまたま映ってしまうものもあれば、無意識に瞬発的に思いつくセリフも絶対ある。
ポン・ジュノは「時計回り」にそんなに意味を込めて書いたと僕は思えない。
単純に映画を面白くしたかったセリフだと思う。
現に僕は、このセリフが持つ瞬発力ある魅力に衝撃を受けたのだから。
なんでもかんでも意味を見い出そうとせず、時には響きやビジュアルをダイレクトに楽しめたら、それが一番だと思う。
『パラサイト 半地下の家族』細かい疑問点や気になることを解説&考察
なぜギジョンだけダソンを手なづけられたのか?
なぜか尽く家庭教師になつかないダソンがギジョンにはすぐ手なづけられてしまう。
その理由はおそらく単純で、ダソンがスキンシップに飢えていたから。
母ヨンギョはダソンを心から愛している。
しかし家が広すぎるのだ。
物理的距離が彼らの心の距離までいつしか隔てていたのだと思う。
母と戯れることが少なかったであろうダソンはスキンシップに飢えている普通の男の子だ。
だから包み込むように自分を膝に乗せてくれるギジョンに彼はすぐ心を許したのだろう。
ダソンは家政婦のムングァンにも懐いていた。
それは全力でムングァンが一緒に遊んでくれていたからだろう。
ダソンはモールス信号を解読したのに…?
ギテクに縛られた地下の住人が発するライトを利用したモールス信号にダソンだけ気づき解読したように見える。
これが起点となって物語が転がると思った人はあっさりポン・ジュノに裏切られる。
そもそもダソンは解読を途中でやめてしまうようだ。
子供の集中力なんてそんなもの。
だがたとえ解読できていてもそれは大人たちには届かない。
ダソンはインディアンにハマっている。
インディアンは資本主義社会とは一線を画す存在だ。
そんな彼らの主張は資本主義社会には届かない。
そう考えると資本主義社会の歯車にまだのっていない(資本主義社会の恩恵は思いっきり受けているが)無垢な存在であるダソンが「ライトの点滅がメッセージだ」などと言ったところで、大人たちは「幽霊を見た」という発言と一緒くたにして精神的な問題と判断しただろう。
またポン・ジュノはそういった真実に気づいている者がいても、それが届かない様を好んでいる。
まあ好んでいるというか、そういった真実が届かないのがこの世界であり、その不条理の様も映画にしたいのだろう。
インディアンにこだわる理由
ダソンがインディアンなのは先述した理由以外に侵略されるもの、一線を超えられるのもの象徴でもあるのだろう。
またインディアンというか、アメリカにポン・ジュノは言及することが多い。
彼は世界の黒幕としてアメリカが機能していると考えているのだと思う。
資本主義社会の大ボスとしてアメリカがドンと構えているのが世界の構図だと。
韓国の頭上にはアメリカから伸びる手があるようなイメージか。
そんなイメージが『殺人の追憶』や特に『グエムル−漢江の怪物−』に顕著にあらわれている。
資本主義社会の頂点にいるヨンギョは妙にアメリカナイズされ、ルー大柴のようにちょこちょこ英語を使うし、アメリカ製品に絶対の信頼を置いている。
韓国をゴリゴリの資本主義国家にした黒幕としてのアメリカという存在を我々に意識づけたいのだろう。
山水景石とはなんだったのか
ギウの友人でありながら、対象的に超エリートな友人ミニョク。
彼が持ってきた山水景石をギウは手放さない。
最後まで象徴的に登場するこの石はなんだったのか。
これはもう単純にミニョクだろう。
ミニョクはギウにとって友人であるが、自分とは対象的なエリート、この社会でうまく機能している憧れの存在でもある。
そんな彼が石を持ってきたことから、人生が上手く回りだした(と錯覚してしまった)。
石はギウにミニョクのもつパワーをくれるようなお守りのようなものとなったのだろう。
立ちション男にもガツンといえるミニョクに対し不甲斐ないギウ。
だから石を持てばそんなミニョクのようになれるような気がして、立ちション男に石を持って立ち向かうのだ。
そして嵐の中まるでギウに寄り添うように水から浮き出てくる石(たまたまだろうが)。
やはり自分にはこれが必要だとギウは石を抱いて寝る。
そのパワーを体に宿そうとするのだ。
ギウは石を持って地下室で何をしようとしたのか
ダソンの誕生日パーティー当日、ダヘの誘惑をよそにギウは石をもって地下室へと下っていく。
だが彼はなにもしないまますぐに地下の住人に発見され、半殺しにされてしまう。
彼は地下室に何をしに行ったのか。
これはおそらく先述したように、石の力を得て地下の住人を殺しに行ったのだろう。
嵐により半地下の家は水浸しになり、地下の住人の登場で一家は窮地に立たされる。
それは自分が家族を巻き込んだせいだと考えたギウは、1人で責任をとろうとする。
そう考えると地下で行う行為は”全てが無かったことにすること”しかないだろう。
だがそのパワーの源であるはずの石のせいで彼はすぐに発見され、逆に石で半殺しにされてしまう。
そう、石はただの石なのだ。
印象的なギウの横顔
初めて家庭教師として授業をする際のギウは顔の半分が映っていない。
これは自分を偽っていることの表現だ。
エリートであるミニョクを自分に宿しているような偽りの姿を表している。
また終盤地下室へ行く前の窓に映るギウのショットも印象的だ。
まるで偽りの自分を憐れむように、ギウは虚像をただただ見つめるしかないのだ。
なぜギテクはパク社長を殺したのか
パーティー当日、地下の住人にギジョンは刺された。
にも関わらずギテクは関係ないパク社長を殺すのだ。
その理由はギテクの蓄積された潜在的な怒りだ。
ギテクとパク社長の関係は良好だった。
経緯はどうであれ、労働力と賃金のトレードで結ばれていた両者。
仕事は卒なくこなし、自分の領域に入ってこないギテクをパク社長は気に入っていた。
ある一点を除いては。
それが臭いだ。
容姿や車はコントロール出来ても、半地下で長年生活していたギテクに染み付いてしまった臭いまではコントロール出来なかった。
その臭いに対するパク社長の考えを不意に聞いてしまったギテクは、貧しい者たちの代表として潜在的に怒りを溜め込むのだ。
身なりがきれいな人間からすれば、当然臭いは気になるものである。
これを差別意識と呼んでいいのか僕には分からない。
しかし染み付いた臭いというのは、本人の努力ではなかなか変えられない、実に生物的な本質的な要素だとギテクは理解している。
ギテクにとってそれを否定さることは、パク社長の悪意の有無に関わらず、存在を否定されていることに等しかったのだろう。
同じ一家の主として、ギテクが家族のことを聞いても、プライベートに踏み込まれることを嫌うパク社長はそれを拒否する。
そういった態度が一方的な怒りとなって積み重なる。
そしてパーティー当日、刺されて瀕死の娘が自分にはいるにも関わらず、この期に及んで労働力を要求してきたパク社長の態度にギテクは唖然とする。
そんな中、自分がいつかなるのではないかと恐れていた地下室の住人(半地下のギテクにとってはいつなってもおかしくない自分より悲惨な境遇の人間。)の臭いに激しく拒否反応を起こすパク社長を見て、再び自分たちが否定されたような気になってしまった。
ついにあのカオスと化していた庭で一瞬にして秘めていた怒りが爆発してしまうのだ。
しかしその潜在的な怒りはギテクの全てではないし、本質でもなかった。
すぐ我に返ったギテクは自らを罰するように、自ら地下を選ぶのだ。
天地がひっくり返る出来事は嵐の夜に
パク一家がキャンプに行き、留守になったのをいいことに、ギテク一家は豪邸を占拠し、贅沢を享受する。
そんなところに追い出された元家政婦のムングァンが表れ、世界はひっくり返る。
そんな運命の時、外は天災のような土砂降りの嵐だ。
これは『下女』にも共通した要素である。
『下女』ではしつこいくらいずっと外は嵐だった。
下女に寄生される主人の叫びのような雨がおそろしいのだ。
ポン・ジュノの作品は共通して雨の日や、河の側など水の近くで不吉なことが起こる。
ポン・ジュノにとって水は災いに象徴なのだ。
なぜ死ぬのはギテクの娘のギジョンだったのか
これは悲劇性が一番出るのが、娘ギジョンだったからだろう。
ギテクにとって最大の悲劇となるのは子供の死だ。
しかし息子ギウはこのパラサイト計画の発端だし、観客の一番近い立ち位置で最後まで映画を見つめる役割がある。
まあそういう意味で死んだら観客のショックはでかいが、「因果応報だ」とか言われてあまり客観的な悲劇性が生まれない。
だがギジョンは巻き込まれた立場だ。
積極的に参加はしているが、学校にさえ行かせてもらえていれば、家庭教師はしていなかったかもしれない。
勉強して培った知識、スキルも十分にあり、家庭環境さえ良ければという同情の余地がある。
そんな彼女だけが、死ななければならないという不条理をここでも演出したかったのではないだろうか。
ポスターの足は誰なのか?その意味を考察
ギテク一家とパク社長一家が家族写真を撮っているかのような印象的なポスター。
だが、彼らの目にはモザイクがかかり、足元には謎の横たわる足がある。
どういう意味なのだろうか。
これは撮影したカメラマンにも意図を監督は言わなかったらしい。
僕の考えを書くと
足はおそらく家政婦のムングァンをイメージしている。
だがムングァンのと断定しているわけでなく、彼女たちのような地下に下らざるを得ない人間たちの象徴ではないか。
彼女は決して誰にも直接的な迷惑はかけていなかった。
勝手に人の家に住み着いてはいたが、夫の食事は自らの給料で購入していた。
裕福な一家に潜入した半地下の一家は疑似家族を築く。
そんな彼らは自らの足元に横たわる、人間たちの存在に気づかない。
それは同じように貧しいはずのギテク一家も同じであった。
自分より足元にいる人間には気づかないのだ。
それは裕福でも貧しくても関係ない。
同じ社会という、すぐ近くに暮らす人間同士なのに、そこにあるのは心の距離とでも言うべき”無関心”だ。
無意識の悪意ない自らの行動が、誰かにとっての悲劇となっているかもしれないのだ。
知らず知らずのうちに加害者となる人々。
自らの足元に人が横たわっていてもそれにすら気づかないという悲劇、不条理をこのポスターは象徴しているように思える。
『パラサイト 半地下の家族』主演ソン・ガンホ
主人公一家の父を演じた、安定のソン・ガンホ。
だが今回のソン・ガンホはいつもとは違った。
とてつもなく不気味なのだ。
普段は田舎にいそうな何も考えてない、呑気なちょっと汚らしい親父なのに、ふとした時に脳が宇宙に行ってしまっているような顔をする。
「なんだ、そんなのいつものことだ」と思う方もいるだろう。
しかし何かが違うのだ。
いつものちょっと抜けててアホで何考えているか分からない感じではなく、とてつもない裏があるかのような分からなさなのだ。
結果的に最後はびっくり展開に行き着くわけだから、演じ分けているとしたらほんとにすごい。
まあこれは誰よりも韓国の格差社会の厳しさを味わった男の、現実を達観して見つめている様なのかもしれない。
普段は明るく開き直ったように過ごしている男がふと見せる、現実に対する厳しい視線、反応。
それがなんとも恐ろしかった。
こんな安定感、存在感のあるアジア俳優はソン・ガンホ以外に役所広司くらいしか浮かばない。
いつかポン・ジュノ、黒沢清の共同監督でやってほしいぞ。
超B級映画『ソン・ガンホVS役所広司』。
『パラサイト 半地下の家族』最後の展開とタイトルに秘められた意味を考察する
そんな緊張感とユーモアに満ちたサスペンスコメディは終盤いつものようにポン・ジュノ特有のバイオレンスに行き着いてしまうわけで、それが大好物な僕は「よ!待ってました!」と拍手したくなったが、後から考えるとちょっと安易だったかなーとも思える展開を迎える。
世界が混乱に陥り、まさにどんでん返しが起きるのだ。
地上の者は揺らぎ、半地下の者は地下へと転落してしまう。
半地下の世界から地上を目指したら地下に行ってしまったという物語の不条理さ、でもそこにかすかに感じずにはいられない美しい(画として)希望は素晴らしいバランスだと思った。
ユーモラスなんだけど、結果はすごく残酷。
だがそれでも人生は続くのだという映画的なラスト。
これがすごく個人的には好きなのだ。
ポン・ジュノがインタビューで言っているが韓国人でなければこの映画を完全に理解することはできないらしい。
たしかにそもそも半地下に住むってこと自体日本人にはいまいちピンとこない。(防空壕として利用できる地下室を作らなければならない法律が制定された名残らしい)
拡大し続ける格差社会を表していることは分かってもその細かいニュアンスは彼らじゃないと本当のところは分からない。
それでも『パラサイト』には胸に響く普遍性があると思う。
興味深かったのはパラサイトされる側の裕福な一家が決して悪意がある人間たちではないということだ。
この一家は韓国社会における財閥のような存在である。
富を独占する一部の裕福な者たち。
この映画で描かれるこの裕福な一家もさぞ嫌味な奴らなのかと思いきや、自分たちより貧しい主人公一家、言い換えれば自分たちより社会的立場が低いであろう他者に対し悪意、敵意や軽蔑心を持ってはいない。(自分たちのプライベート空間へ侵入さえしてこなければ。だがこれは誰だってそうだ。)
農村の象徴であるような切り干し大根の匂いがするのがちょっときついけど、仕事は出来るし、何より一線は越えてこないからいいじゃないかと雇い続ける判断もしている。
つまり何か悪意あることを主人公一家や自分たちより貧しい人間に能動的にすることは決してない。
にも関わらず2つの家族は最悪の結末を迎えてしまう。
その引き金が”無関心”であったことが何とも不条理だ。
悪意ですらない無関心さ。
自分たち以外は存在すらしていないんではないかと思わせる、咄嗟の場面で剥き出しになったパク社長の他者への無関心さがなんとも恐ろしい。
彼らにとって他者は悪意も善意も向ける存在ですらなかったのだ。
いや、待てよ…
あの場面では社長が自分の家族を第一に考えるのは至極当たり前なことだ。
ずっと風呂にも入っていない人間の臭いに反射的に不快感を示してしまうのも正常な人間なら普通のことである。
しかし結果的にギテクは振りかざす必要のない刃を振りかざして世界を破壊してしまった。
そうだ、実は何よりも恐ろしいのは咄嗟に剥き出しになった裕福なものへの潜在的な敵対心、逆恨みの心なのではないか。
彼ら裕福なものは大雨による災害で街が大変なときにホームパーティーを呑気に開いてしまってはいる。
だがそれは悪なのか?罪なのか?
パク社長夫妻にあるのは他者への無関心だと決めつけた僕が潜在的に持っている偏見も恐ろしい…
ラストの誕生日パーティーのカオスはまるで現実世界の縮図だ。
地上、半地下、地下の住人、その誰一人として決して悪人ではなかったのに壊れてしまった世界。
原題"parasite"とは絶望的なほど開いた格差社会において、ふいに表出してしまった人間に潜む恐ろしい心のことであった気がしてならない。
おわり