Netflix映画『ROMA/ローマ』ネタバレ評価&感想&解説!やはり映画はこうでなくてはと思わされる映画です。
©Netflix, Inc.
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「映画を観る」って行為はけっこう疲れる行為だと思うんです。

人生の大切な2時間前後を捧げる崇高な行為なわけです。

「何を観るかという選択は人生の選択に等しい行為」

と名言風に大げさなこと言ってみましたけど、まあよくよく考えるとほんとにそうだと思うんです。

 

今回取り上げる映画はアルフォンソ・キュアロン監督作『ROMA』です。

ROMAというタイトルにとてつもなく静かなモノクロの画。

たったそれだけの鑑賞前の情報から真っ先に思い浮かんだのは大学生の時に観た『フェリーニのローマ』(1972)でした。
イタリア三代巨匠の1人フェデリコ・フェリーニの「これがわしが思うローマじゃよ」みたいな映画だったらしいのですが、当時の僕には全くピンと来ず。
ただイタリア三大巨匠の映画を観てる自分というのに酔っていたんでしょう。
ただただ流れる意味不明な映像にはっきりと苦痛を覚えた僕は自分に酔いしれたまま、そもそも使っていない脳を更に休ませることにしたのです。

爆睡

ほぼ後半は何も覚えていません。

そんな苦い映画体験が頭をよぎり、この『ROMA』もアルフォンソ・キュアロンが思うイタリア・ローマとは?みたいなクソどうでもいい映画だと勝手に思い込んでしまったのでした。
思い込みってすごいですよね。
僕は自然に入ってこない限り、なるべく事前にあらすじとかも読まないタイプなので完全に自分の中の『ROMA』像が出来上がってしまいました。

そして第75回ヴェネツィア国際映画祭で最高賞金熊賞を取っちゃったと知り、「観てえな」と思ったものの『フェリーニのローマ』が脳裏をよぎって邪魔をします。
Netflixで選択しては携帯をいじり、また選択してはちょっといやらしい映画に逃げ、そしてまた選択しては寝るということを繰り返してしまいました。

そしてついに意を決して観た『ROMA

 

 

……

なんと杞憂だったことか…

俺はなんて意気地なしだったんだ…

さっさと観れば良かった…

ということで「観る映画を選択するのに時間使ってるくらいならさっさと観てしまえ」という教訓を与えてくれたアルフォンソ・キュアロン監督、Netflix配給の『ROMA』の感想を書きたいと思いますよ。

『ROMA』とは???(まだネタバレなし!多分)

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作品データ
原題 Roma
製作年 2018年
製作国 メキシコ・アメリカ合作
上映時間 135分

スタッフ
監督
アルフォンソ・キュアロン
製作
ガブリエラ・ロドリゲス
アルフォンソ・キュアロン
ニコラス・セリス
製作総指揮
ジェフ・スコール
デビッド・リンド
ジョナサン・キング
脚本
アルフォンソ・キュアロン
撮影
アルフォンソ・キュアロン
美術
エウヘニオ・カバレロ
衣装
アンナ・テラサス
編集
アルフォンソ・キュアロン
アダム・ガフ

キャスト
ヤリッツァ・アパリシオ / クレオ
マリーナ・デ・タビラ / ソフィア
マルコ・グラフ
ダニエラ・デメサ
カルロス・ペラルタ
ナンシー・ガルシア
ディエゴ・コルティナ・アウトレイ

 

監督/キャスト

監督・編集・撮影監督はアルフォンソ・キュアロン。
『天国の口、終りの楽園。』(2001)、トゥモロー・ワールド』(2006)、ゼロ・グラビティ』(2013)などを撮っています。
近年は『トゥモロー・ワールド』、『ゼロ・グラビティ』の成功によりすっかり浮いた被写体やカメラ自体を浮かせたがるSF映画監督みたいなイメージついてきてましたが、その反動なのか『ROMA』は地に足ついた、というか地に足つきまくりな少しも浮ついたところがない作品となりました。

当初撮影監督はアルフォンソ・キュアロンの相棒エマニュエル・ルベツキが務めるはずだったらしいんですが、スケジュール的なことで降板し、結局アルフォンソ・キュアロン自身が務めることになったらしいです。
エマニュエル・ルベツキも今やアカデミー撮影賞を3年連続受賞した売れっ子ですからね。
同じくエマニュエル・ルベツキが撮影を務めることが多いアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥやテレンス・マリックと奪い合いしてんのかもしれません。

主演のヤリッツァ・アパリシオは映画初出演。
その他の出演者もソフィ役のメキシコ人女優マリーナ・デ・タビラ以外ほとんど無名らしいです。

世界の映画賞席巻中だけどNetflix映画

この映画20191月30日現在、ヴェネツィア国際映画祭で金熊賞受賞を筆頭にゴールデングローブ賞、米アカデミー賞外国語映画賞など世界各国の映画賞ノミネートされまくり、受賞しまくり作品なのですが、もう既にNetflix契約してれば誰でも家で見られる状況です。

すごい時代ですよ。

その代わりNetflixが配給権を獲得した為一般劇場公開はされないんです。
映画館で観たいと騒いでる人達がいるみたいなんですけど、これは僕でも納得できるレベルの大画面で観た方がいい映画でしたね。

ほんと映画制作方式の転換期なんですよね。
売れそうにない尖った企画とか本当に面白いものは予算が出ないから、Netflixamazonのようなネット動画配信サービスが出資し、独占配給なので劇場公開されないことが多くなってきました。
大画面で多くの他人と時間を共有しながら観るというのが映画のもつアイデンティティの1つだったのに、制作者は面白さを獲得しようとする代わりに大画面一般公開を諦めなければならないというなんとも悩ましい時代に突入しました。
この流れはどんどん加速するんでしょうねー。
僕はNetflix制作のポン・ジュノ監督作『オクジャ』(2017)なんかはたまたま運良く試写会で大画面で観れましたけど、今後この流れが加速して有名監督の作品を映画館で観る機会が減ると思うと切ないですねー。
なにかもっといい方式ないんですかね。
劇場公開することで欲深いNetflixにもメリットがある仕組みが見つかればいいんですけど。
まあないでしょうね。

どんな映画なのか

『ROMA』が何を描いた映画かというと監督アルフォンソ・キュアロンの子供の頃を描いた自伝的映画らしいんですね。

ヴィム・ヴェンダースの『パリ、テキサス』(1984)のパリがフランスのパリじゃなかったように、この映画のローマもイタリアのローマではなく、メキシコの首都メキシコシティのローマ地区という今ではおしゃれシティになってる場所のことなんです。

でそこに暮らすヨーロッパ系メキシコ人家族とメキシコ原住民のメイドさんの1970年代の激動の1年を描いた映画です。
一家は両親、子供4人、祖母、メイド2人、犬1匹で暮らしています。
家はくそでかく、僕から見たら相当金持ちに見える一家ですが、設定的には中流家庭らしいです。

先程書いたように監督の子供時代の話なんで子供のうちどれかがアルフォンソ・キュアロンなんですけど、主役は彼ではありません。
この映画の主役は原住民の若きメイドのクレオです。

実際のアルフォンソ・キュアロンの父親は国際原子力機関原子物理学者というエリートなので、映画の中でもそうなんですが家にほとんどいなかったそうです。
そういったお金がある家は日本でもそうでしょうが、メイドさんを雇うことが多くお母さんはほとんど子育てをしなかったらしいんですね。
もちろんネグレクトではないので愛情は注いでいたんでしょうが、クレオのモデルとなったメイドさんが乳母となって育ててくれたらしいんです。
アルフォンソ・キュアロンはそのメイドさんにかなり懐いていたようで彼女を主役に映画を撮ったんです。

1970年代のメキシコは植民地時代を引きずった人種差別やジェンダー問題、更には経済発展による貧富の差から暴動が起きるなど社会情勢が不安定でした。
分かったように書いてますがそんな分かってません。
でもアルフォンソ・キュアロンの母親やメイドさんにとっては生きるのが大変辛い時代、国だったんですね。

そんな一家というか主にメイドのクレオ、母親ソフィアの激動の1年を、最近の映画としては珍しいくらいブレのないどっしりしたカメラワークで静かに丁寧にモノクロで描いています。
寄りの画がないわけではないんですが、登場人物の心理を覗こうというよりは、映画内で起きることをあるがままにある一点からひたすら見つめ続ける映画です。
後述しますが、撮影に使ったカメラがいいカメラなので、映像自体がものすごい高精細で美しいのでそれだけで退屈することはありません。

あらすじは書いたところでそれを読んで観よう!と思うような話でもないですし、どこまでネタバレしてないのか判断するのも大変なので書きませんが、とにかく素晴らしいので、観た方がいいとだけ言っておきます。
賞レース映画はいざ観るとイマイチだなあと思うことも多いですがこれは良かったです。
僕みたいに先入観で退屈そうだな、寝そうだなとか思って観ないのは損ですよ。

あ、でもパソコンなんかでは決して観ないでくださいね。
スマートフォンなんてもってのほか。
まあこの映画に限らずスマホで映画観てるやつは人生やり直した方がいいですけど。
せめて大型のテレビで。
僕はそこまで映画館至上主義ではないですが、この映画は大画面で観る意味がある映画だと思います。
僕は自宅でプロジェクターを使用して約120インチの壁スクリーン、サラウンドヘッドフォンで鑑賞しましたけど、それでもやはりもっと大きい画面で観てみたいと思ったので。ほんの少しですけど。

てことで次から感想!

映画『ROMA』評価、感想(ネタバレあり

まずはうんこ度(このサイトではどのくらいつまらなかったかで評価しています。つまり10がワースト)

2.0/10  犬ってあんなにうんこ出るのかと感心してしまう映画

全然褒めてるようにはみえないと思いますが、素直に「心から観て良かった」と思える映画でした。

『ROMA』は冒頭書いたように僕の想像とは全然違う映画でした。

何だったのか説明しろと言われたら意味不明なところもありましたが、『フェリーニのローマ』のように意味不明の洪水のような映画ではなく、「ゆるやかに、でも時々激しく流れる河のような映画」です。
あ、一応『フェリーニのローマ』に関していうと、もちろんフェリーニが悪いわけではなく理解できない僕が馬鹿だっただけですからね。
今観たらまた違う感想だと思います。
そして今一度『ROMA』とは少しも関係ないことだけ申し上げておきますね。

カメラは三脚に据えるもの

なんでそんなに鑑賞後爽快な気分になったかというと、久しぶりに「映画観たなー」て思える映画だったのですよ。
というのも僕はまだまだピチピチで若いんですけど、映画に関してちょっと古い体質の持ち主でして「カメラは三脚に据えるもの」とか「ズームは邪道」とかってクラシックな映画論が頭の片隅にこびりついているんです。
さんざん自分も普段軽いカメラを一脚とかに乗せて振り回してるのに全然落ちないんですよ、このこびりつき。

近年ビデオカメラは技術の進歩でどんどん軽くなり、どんどん安くなってるんですよ。
少し前では考えられないくらいの価格破壊っぷりです。
デジタルシネマカメラと言われるレンズ交換式のボケがでかくて、色などを後でいじれるそこそこのカメラが100万以下で買えてしまう時代です。
デヴィッド・フィンチャーが大好きなRED社のカメラも安いものだと、心臓部だけならそんくらいです。
それによって幸か不幸か誰でも動画を撮れる時代となってしまいました。
スマホ使えば馬鹿でも撮れますしね。
そのせいでバラエティやyoutubeだけでなくドラマや映画も手持ちカメラで動きまくり揺れまくりなものが多くなった気がします。
観る側もどんどんそういう画を見慣れてきてしまっているんですよね。
特に演出意図も感じない地震?みたいな揺れまくりの画。
その臨場感みたいなのがかっこいいみたいな風潮まで感じるこの時代です。
せわしなく動いてスピード感や生っぽさ、迫力みたいなものを出さないと間がもたないと思っているんですかね。

またカメラ軽くなったの関係ないんですけど、とにかく登場人物の感情を説明しようとする映画だらけになりましたよね。
言い換えるととにかくカメラが被写体に近い映画。
演出意図があるというより、そうしないと状況や登場人物の感情が伝わらないんではないかと不安になってる気がします。

そんなこと思ってた時に、このほぼ三脚に据えて撮られたであろう安定感抜群の画で紡がれた映画ですよ。
「やっぱり映画ってこういうもんだよな、アルフォンソよ」と思わずにはいられませんでした。
「カメラがグイングイン動いて被写体に迫って迫力を生み出さなくても、観てる側を飽きさせないことは可能だし、登場人物に状況や感情をセリフで説明させなくても、アップばかりで心理描写ばかりしようとしなくても観客を感動させることは出来る」とそう改めて実感させられましたね。
いい映画でした。

この映画はデジタル撮影なんですけど、ARRI社のALEXA65というカメラで撮ったそうです。
ARRI社はフィルム時代から映画撮影カメラの老舗なんですが、デジタルシネマカメラALEXAはハリウッドを含めた映画業界標準のカメラでして、あの作品もこの作品もすべてALEXAなんじゃないかというくらいのシェアなんです。
先述したようにデヴィッド・フィンチャーなんかは自分仕様に特別に作られたREDを愛用していますが、けっこう少数みたいですね。
あ、で、そのALEXA65はALEXAのもつイメージセンサー(受光部)の約3倍の面積のイメージセンサーなんです。
イメージセンサーって要はフィルムの面積みたいなもんです。
そのイメージセンサーがくそでかいと何が良いかと言うと、とにかく高解像度なんです。
これはパソコンレベルではよく分からないかもしれませんが、40インチ程度のテレビであればフルハイビジョンでもギリギリ感じられるんではないでしょうか。
ALEXA65は6Kまで撮れるらしいんですが、そこまでいくと映画館で流してくれないとその魅力を最大限感じることは出来ないでしょう。
でも家庭でも「言われてみればなんか綺麗だ」という彼女、嫁が髪を切った時の男の正直な感想程度には違いを感じられると思います。
あとは同じ場所にカメラを据えてもALEXA65の方がより広い画を撮れることや、人間の遠近感に近い画が撮れることなどがメリットみたいです。
デメリットとしてはとにかくボケるんでフォーカス合わせるのが大変なことでしょうか。

全てが美しく映るモノクロ

ということでとにかく高精細な画なんですよ。
屋内、屋外問わず、柔らかな光が画面に定着していてとにかく美しいんです。
この映画では光以外にも、水、火、うんこ、ちんこ、変態(謎のソベック先生)などありとあらゆるものが登場します。
そのどれもが美しい。
デヴィッド・クローネンバーグでさえアキラ100%のようにちんこを隠そうとするのにこんなに堂々とさらけ出すって潔いなあ、なんて思いながらその映像美に見とれてしまう。
特に太陽光が差す家の屋上でクレオが洗濯物を干しながら子供と寝そべるシーンなんて、そのユーモラスで暖かなやり取りと相まって本当に美しいショットとなっていました。
あとは農場の火事シーンですかね。
どうやってあんな危険なシーンをこんなに長回しで撮るんだという疑問と共にその美しすぎる炎のゆらぎに見とれてしまいます。
全てが美しく見えてしまうのはちょっとしたデメリットでもあるし、僕は普段ざらついた画も好きなんですが、この映画はこれで良かったんだと思います。
こんなに何もかも美しいと現実離れしていて爽快ですよ。
映画はカメラを通して知っているはずのものも変容させてしまうから面白いんです。
演出意図と合っているのかは疑問ですけど、こんな映画があってもいいと思います。

そして高精細という以外にも何もかもが美しくなった理由の1つにモノクロだということがあげられると思います。
余計な色情報がないと、物体がよりシンプルに映る気がします。
色情報による汚い部分が隠されるんですよね、きっと。
それにしても奥行きのある柔らかいモノクロですよね。
モノクロなんだけど色を感じるというか色が見えるというか、先述したことと矛盾してますけどそんな感覚に襲われます。
コントラストを損なわずにどうしたらこんな柔らかいモノクロになるのか疑問です。
とりあえず何でも「カメラが良い」ということにしておきたいと思います。

監督がモノクロにした理由は「過去を神の視点のように傍観している効果を期待して」など様々あるんでしょうけど、僕が一番この映画がモノクロで良かったと思ったのは、画面から懐かしさを感じられた時です。
具体的には「フルチン男がホテルでクレオに意味不明な棒術を披露するシーンのファーストショットである、窓の外は雨ショット」や「クレオが子どもたちと映画に行くシーンの家の前のショット」などで、とてつもなく懐かしい妙な幸福感に包まれたんです。
メキシコなんて行ったこともなければ縁もゆかりも無いんで記憶にあるわけないんですけど、僕の記憶の奥深くにあるなにかが呼び覚まされたんですよ。
これは実はこの映画を観た人の大半に起こるんではないでしょうか。
もちろんそのショットは人それぞれ違うと思うんですけど、どのショットもその場の空気を感じられるんです。
それは自然光、影、雨、水などを鮮やかに画面内にとらえているのはもちろん、モノクロだったのが大きいと思うんですよ。
モノクロだったからメキシコ特有の風景以前にまずダイレクトにその場の空気を感じ取ることが出来て、自然が作り出す世界共通の人間の記憶みたいなところをくすぐったんじゃないかと。
自分で書いててよく分からなくなってきましたが、とにかく何でもなショットがすごく気持ちが良かったです。

 

モノクロの他に映像の大きな特徴として先述したようにほぼ三脚に据えて撮られたと思われる安定したワイドな画の多用があげられます。
もちろん移動ショットもありますがクレーンを使った派手な動きではなく、じみーな横移動などに限られます。
これが実はすごく意味がある横移動なのですが。
また登場人物に無駄に近づかないんです。
これは神の視点というか、俯瞰ではないのでまた違うんですが、登場人物に無駄に介入することなくただ彼らを見つめようとする態度の表れに思えます。
多分アルフォンソ・キュアロンは過去を変えたいとかそういう後悔や無念はなくて、ありのままを受け入れ冷静にその時代の家族、メキシコを振り返り整理し前に進もうとしているんじゃないかなあと。

横移動ショットの意味

先述した移動ショットの話をするとこの映画はジム・ジャームッシュの『ダウン・バイ・ロー』(1986)なんかを彷彿とさせる横移動が繰り返されます。
ローマ地区の街並みを「右から左」に動きながらとらえるこの移動ショットはそれだけでとにかく気持ちいいんです。
どの要素がそうさせるのかは分からないんですけど、映像の原始的な喜びといいますか、感覚的なものですよね。
感じない人は何も思わないと思いますが…
でこの移動ショット大半が「右から左」なんですよ。
一部「左から右」もあるんですがクレオ一人ではなかったり、自分の意思ではない移動なんです。
でもねこれは一種の布石でもあったんですねえ。
クライマックス、波にさらわれた子供たちをクレオが救出し、生還するシーン。
クレオが自らの意思で大地を歩き波に向かっていくショット。
ためてためてためてためてためてついに「右から左」が炸裂します。
気持ちいいー!!
漫画『はじめの一歩』の木村VS真柴戦のような気持ちよさが炸裂してます。
もちろんこれはそういう移動の解放という動画ならではの気持ちよさというだけでなく、このシーンでアルフォンソ・キュアロンはクレオをそれまでの苦しみやシガラミから解放し、彼女の存在を祝福したんだと思います。
僕は神なんて信じてませんが、このショットはクレオが神といいますか地球といいますか大地といいますか、とにかく大きな生命みたいなものに存在を祝福されているようにしか見えません。
なんたって「右から左」に力強く波に抗い、生命を救おうとしているその姿に後光までさしちゃってるんですから。
決してアルフォンソ・キュアロンがクレオのボディラインをいやらしい気持ちで撮りたかったわけじゃないんです。
「左から右」が苦しみや不幸など陰の動きだとすると、「右から左」は生命の力強さや明るい未来などの陽の動きだと言えそうです。
一人の女性が改めて命を輝かせるというテーマは前作『ゼロ・グラビティ』と通じるところがありますね。

それにしてもこのシーンは奇跡みたいな美しさですよね。
過去作が『トゥモロー・ワールド』、『ゼロ・グラビティ』ですからVFXを疑ってしまいますよ。
撮影も本当にやってるとしたらめちゃくちゃ危険だし、太陽の位置や最後のみんなで抱き合う位置も完璧です。
砂浜で抱き合うクレオ、一家に太陽光が指しているところはたまらなかったです。
あんなにシンプルに美しいもの撮られると、そんな柄ではないんですが涙出ましたよ、悔しいですけど。

ついでに移動ショットのことや波について触れてくと、『ROMA』の特徴的なファーストショットはこの波を最初から暗示してるようですよね。
クレオが犬のうんこをバシャバシャ洗ってる最中の床がひたすら映されるという斬新なオープニング。
波のように床を走る水がこれから起こる波乱を暗示していたのかなあなんてクライマックスを観て思いました。
またこの波は「時間の流れ」といったものを観る者に感じてもらうために意図的に長く撮っているみたいですね。
アルフォンソ・キュアロンのインタビューから察するに。
「時間」の概念て映画ではすごく大切なんですよ。
なんたって編集という行為で時間を操ることが出来るわけですから。
でも通常映画を観てる最中に「時間」を意識することってないんですよね。
「この映画なげーな」とかいう時間感覚はあるにせよ、映画内で流れている「時間」という概念自体に意識がいくことはまずありません。
そういう意味で非常に狙い通りのうまい演出だと思いました。
この映画は「時間の流れ」を大切にしてますよーという決意表明のようです。
犬はこのためにあんなにうんこをがんばってしていたのかと思うと涙モノです。

映画内の時間と長回し

またちょっと脱線しますが「時間」という観点から1つ話を。
この映画はその他のアルフォンソ・キュアロン映画と同じく長回しが多いんです。
『トゥモロー・ワールド』、『ゼロ・グラビティ』の長回しは非常に驚かされますし、印象的なんですが、「どうだ、すごいだろ?」みたいな感じがちょっと鼻につくんですよ。
でもこの映画は違いますね、必然性をはっきり感じます。
カメラが客観的な視点を意図して置かれているので、カット割りも必然的に長回しが多くなるんですが、これは「時間」という点において重要な演出なんですよね。
カットを割らないということは「時間的な嘘が挟み込まれない」ってことなんです。
当然ちゃあ当然な話なんですが、「映画内で流れた時間」=「現実世界で流れた時間」なんです。
一般的な映画は人の動きにあわせてショットを区切ってあたかも一連の時間の流れのように「嘘」をつくわけです。
それが悪いわけではないんですよ、一般的な映画ではそんなの気にならないように出来てますから。
でも『ROMA』という「時間の流れ」が1つのテーマの、現在からクレオや一家を冷静に静かにただ見つめるこの映画には、そんな嘘くささが非常に邪魔になるんです。
どうしたって冒頭に無意識に「時間」を意識させられ、非常にゆるやかな時間が流れるこの映画ではその「嘘」が目立ち、映画内から意識が現実に戻されるんです。
だから必然性がないかぎりなるべくショットを区切らないというアルフォンソ・キュアロンの意思を感じます。
この「カットを割る、割らない」問題は多分映画制作者の永遠の課題だと思うんです。
だってただドンとカメラ置いて一箇所からパンやティルトだけで撮るって今の映像業界からすると恐ろしく勇気がいる行為だと思うんですよ。
「ここは寄って表情ベースのショットにしといた方が良いんじゃないか……ねえ、どう思う?メイクさん」なんて猫の手も借りたいくらい不安になる問題なはずです。
だからこの映画のようにそれがテーマとぴったり合うと確信できると、その相乗効果で素晴らしいものになるんでしょうね。
すごいなー。

冒頭のショットの話に戻すと、この床の水に反射した空が映り、映画中何度か出てくる特徴的なモチーフ「飛行機」が「右から左」に横切っていくんです。
この「飛行機」は他にも「中盤に出てくる謎のソベック先生の頭上」そして「ラストショット」に登場します。
これはすごく意味深ですよね。
僕の解釈としてはこれも「時間の流れ」の象徴なんだろうと思いました。
まず単純に空間的な飛行機が飛ぶ動き、時間が「時間の流れ」を感じさせます。
あと飛行機の動きって空間を裂くようなイメージないですか?
時空を超えるようなイメージ。
この映画はアルフォンソ・キュアロン自身が現在から過去を振り返っているんです。
だから飛行機で監督が時空を越えて過去に戻っているようなそんなイメージを受けるんです。
方向は「右から左」。
クライマックスのクレオが生命を輝かせ、自らの未来を切り開く動きが「左から右」なので「右から左」は過去へ向かうイメージとして間違ってなさそうです。

あ、忘れてました、素晴らしいシーン。
クライマックスも素晴らしいんですけど、クレオが一家の祖母に連れだたれベビーベッドを買いに行くシーンが抜群に良いんですよ、ゾクゾクします。
それまで映画は一家の日常を静かに描いていくんですが、このシーンで突然不穏な空気が全開になり恐怖を覚えるんです。
それまでもヒステリック気味なお母さん、ソフィアの浮き沈みっぷりがけっこう恐怖なんですがその比ではありません。
クレオが家具店の2〜4階くらいでベビーベッドを見ている最中、フロアの窓の外から見える景色はいつの間にか地獄と化しているんです。
最初に書いたとおり、この時代メキシコは貧富の差などの問題から政府VS反政府の闘いが激しくなっていたらしいんです。最低下半身男が所属している怪しすぎる武術集団は政府側支持で、反政府派の学生たちを弾圧していたそうです。
その学生弾圧、虐殺が壁を一枚隔てた外で繰り広げられているんです。
それをクレオ越しにパンで見せるんですが、その「今まさに起こってます感」が素晴らしいんです。
臨場感とはまた違う感覚だと思うんですが、至って静かな内側と激しい暴力に包まれた外側のこの境界を1ショットに収めたのがゾクゾクします。
さらに安全だと思っていた内部に暴力が侵食してきます。
恐ろしい暴力が正に目前にあるという感覚がものすごく伝わってきます。
そしてその暴力を背景に銃を持った手のみが大写しにされます。
「うわー、こえー」と思ってカメラがゆっくりパンすると、その手の主は最低下半身野郎。
前半の優しい田舎男とのあまりの落差に本当に恐ろしいシーンです。
反体制派弾圧に便乗してクレオ諸共お腹の子供を処分してしまおうかと考えているのがハッキリ分かる恐怖。
何とも言えないフ最低下半身野郎の表情も良かったです。
下手なホラーの何倍も怖いですよ。

クレオについて

大分長くなってしまいました。
そろそろ終わろうと思いましたけど肝心なクレオについて書いてませんでした。
まずクレオ役のヤリッツァ・アパリシオ・マルティネスさん。
1993年生まれの素人さんです。

……

1993年????

 

失礼ながら素人云々より年齢に度肝ぬかれてしまいましたよ。
全然僕より若いじゃないですか。
現実世界なら急にタメ口になってしまうところです。
まあ映画内の大半が無表情で、薄化粧で、悲しい出来事が降り掛かってくるので少し老けて見えるのかもしれません。
思い返すと笑うとたしかに20代の若々しい笑顔だったかなあと。

演技に関していうとこれが正解なんじゃないかと僕は思ってしまいました。
そういう役というのもあるんですが、大げさに表情を変えずとにかく画面に収まることを考えているような演技。
やはりその対極にある職業俳優ってどんどん演技がうるさくなる傾向にあると思うんです。
演技について考えて考えて、さらに観られてることを計算し、演じる。
それって余計なものがどんどんついていってる気がするんです。
舞台俳優がそのまま映像作品に来てしまった時など目も当てられません。
多分アルフォンソ・キュアロンは余計なことをヤリッツァ・アパリシオ・マルティネスに考えさせなかったはずです。
「演技なんてしなくていい」と。
「僕の指示通りにカメラの前に存在してくれたらいい」と。
実際、この作品は脚本を俳優に渡さず、その場その場で指示を出して撮ったらしいです。
映画の演技ってそのくらいシンプルでいいと思うんですけどねえ。
役の感情なんて考えたってしょうがないのに。
そんなもん現実世界で見えますか?という話ですよ。
なのにそれを作ろうとするから蛇足になる。
ま、あくまで僕の個人的考えですが。

ラストショットは屋上に登っていくクレオ、そして空、飛行機と共に「Para Libo リボへ」というタイトルが出ます。
この「リボ」というのがクレオのモデルとなったお手伝いさんの名前なんです。
映画を観ればもうそうとしか思えないですが、この映画はリボさんへの愛なんですよね。
この映画の90%は本当のことで出来ているらしいです。
メキシコ国内の人種、性、階級差別などに苦しみながらも、それを越えて自分を一生懸命愛してくれたリボさんにアルフォンソ・キュアロンは本当に感謝しているんでしょう。
大人になっていかに当時のメキシコ国内でリボさんが生き辛かったか分かったんでしょう。
当時のメキシコ国内の様子なども描いていますが、そんなことよりリボさんを全力で讃えたい気持ちの方が全面に出ていたと思います。

アルフォンソ・キュアロンは「リボ・コン」なんだろうなあと思わせてくれる映画でした。

終わりに

『ROMA』に描かれているメキシコの歴史や悪しき慣習は現代の世界や日本にも通じる要素ありますけど、正直興味ないんでどうでもいいんです。
僕が何よりも感服したのは、こんな個人的な一人の女性への思いだけで撮りきったような私的な映画が世界で評価されたくさんの人間を感動させていることでした。
美しい愛情は時代も世界も越えて普遍性を得るってことなんですかね。
全くウェットじゃないのに、量産される「病気モノの邦画」の何倍も感動しましたよ。
映画に正解なんてないでしょうけど、少なくとも『ROMA』の前では量産されるあほ邦画は間違いであると言い切って良さそうです。

そんな日本の惨敗ぶりを感じる素晴らしい映画でしたよ。

 

どうでもいいですけど「フェデリコ・フェリーニ」って高いハムの名前みたいですよね。

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