きみの鳥はうたえる
(C)HAKODATE CINEMA IRIS

 

何も起きない映画だ。

人が殺されたり、誰かが不治の病に侵されたり、壁をドンと手でついて顔を近づけてくるアホも登場しない。

誰もナイフや銃を出さないし、爆発も起きないし、話を引っ張る謎もない。

 

つまりエモーショナルな出来事は皆無なのだ。

 

なのに

何回も観てしまう。

 

そんな不思議な映画が三宅唱監督作『きみの鳥はうたえる』だ。

 

好きな映画の中にも、何度も観るものと、そう回数は観ないものがあると思う。

この違いはなんなのか。

 

まあ単純に尺が長い、話が重くて気分が落ちる、など素晴らしくてもそう簡単に観る気が起きないものがあると思う。

それ以外でいうと、どうやら僕はストーリーを楽しむというよりも、その映画内の人間、空間、雰囲気が好きな映画を何回も観ているようだ。

その登場人物にふれ、その空間に入り込み、流れる時間を共有する。
そこに何とも言えない幸福を感じられるもの、そういうものを僕は何回も観ているようだ。

 

まさに『きみの鳥はうたえる』はそんな映画なのだ。

 

 

 

『きみの鳥はうたえる』(映画)とは

作品データ

2018年製作/106分/G/日本
配給:コピアポア・フィルム

スタッフ
監督
三宅唱
原作
佐藤泰志
脚本
三宅唱
企画
菅原和博
製作
菅原和博
プロデュース
菅原和博
プロデューサー
松井宏
撮影
四宮秀俊
照明
秋山恵二郎
録音
川井崇満
美術
井上心平
衣装
石原徳子
メイク
石川紗織
小道具
平野藍子
音楽
Hi’Spec
助監督
松尾崇
ラインプロデューサー
城内政芳
アソシエイトプロデューサー
寺尾修一
キャスティング
神林理央子
スチール
鈴木淳哉 石川崇子
制作主任
小林大地

キャスト
僕 / 柄本佑
佐知子 / 石橋静河
静雄 / 染谷将太
森口 / 足立智充
みずき / 山本亜依
柴田貴哉
水間ロン
OMSB
Hi’Spec
直子渡辺真起子
島田萩原聖人

解説
「そこのみにて光輝く」などで知られる作家・佐藤泰志の同名小説を、柄本佑、染谷将太、石橋静河ら若手実力派俳優の共演で映画化した青春ドラマ。原作の舞台を東京から函館へ移して大胆に翻案し、「Playback」などの新鋭・三宅唱監督がメガホンをとった。函館郊外の書店で働く“僕”と、一緒に暮らす失業中の静雄、“僕”の同僚である佐知子の3人は、夜通し酒を飲み、踊り、笑い合う。微妙なバランスの中で成り立つ彼らの幸福な日々は、いつも終わりの予感とともにあった。主人公“僕”を柄本、友人・静雄を染谷、ふたりの男の間で揺れ動くヒロイン・佐知子を「映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ」で注目された石橋がそれぞれ演じる。

『きみの鳥はうたえる』(映画)原作者 佐藤泰志

『きみの鳥はうたえる』は佐藤泰志の小説が原作である。

 

佐藤泰志といえば近年著作

『海炭市叙景』(監督 熊切和嘉)、

『そこのみにて光輝く』(監督 呉美保)、

『オーバーフェンス』(監督 山下敦弘)

が次々と映画化され、『きみの鳥はうたえる』はその第4弾となる。

 

佐藤泰志はもうこの世にいない。

1990年に自ら命を絶っている。

その理由は本人にしかわからない。

どうしても”佐藤泰志”にはそのことがまとわりつき、生前は思うような評価を得られず、近年全集が発行されてから再評価が進んだ作家という見られ方が多いようだ。

 

僕は佐藤泰志を読んだことがなかった。

だが映画は3作とも見ていた。

どれも企画が、佐藤泰志の同級生で函館シネマアイリス代表の菅原和博なので、映画の舞台は佐藤の出身地である函館市だ。

3作で「函館三部作」と位置づけられてる。

 

僕は地方出身者だ。

映画は地方ならではの物悲しい空気や救いがない感じが画面に色濃く出ていて(特に『海炭市叙景』、『そこのみにて光輝く』)息苦しくなった。

そこから救いを見いだせないわけではないが、登場人物たちの生と映画が地続きだとすると、どうしても手放しではそこから”希望”を見出すことはできなかった。

 

だから小説も全てそういった、作者の感じた、現実を生き抜く厳しさや壁、絶望や後悔が全面に出た重苦しいものなのだろうと思っていた。

 

だが今回原作の小説『きみの鳥はうたえる』を読んで感じたことは違っていた。

とてもサラッとした文体なのだ。

口調にすこし古臭さを感じるところもあるし、どこがずっと影がつきまとってはいる。

しかしものすごくカラッとした空気がそこには流れていた。

 

『きみの鳥はうたえる』は佐藤泰志の本格的な文壇デビュー作といえる作品で芥川賞候補になった作品らしい。

初期作品だからというのが、影がありつつもとても軽やかでライトな文体の理由なのかもしれない。

 

だがどうしてもこの作品を残した作者が自然死ではないということが、作品へ余計なバイアスをかけている気がしてならない。

逆にその生き様を含めて作者の作品とも言えるのかも知れないが、なんとも複雑な気持ちになる。

『きみの鳥はうたえる』(映画) 監督、キャスト

監督は三宅唱

『きみの鳥はうたえる』が実質メジャーデビュー作といえる新鋭監督だ。

 

注目されたのは『playback』(2012)という村上淳主演のモノクロ作品。

たまたま三宅監督の自主制作作品『やくたたず』(兼撮影三宅唱)を観た主演の村上淳が感銘を受け、三宅監督に逆オファーをかけた作品だ。

村上淳所属の芸能事務所ディケイドが何周年だかの記念に映画を制作するというタイミングだったらしい。

村上淳かっけー

と思ったり、画づくりや時間感覚がなんとも言えない魅力的な作品だが、残念ながらDVDなどにはなっておらず、日本映画専門チャンネルや劇場でかかるのを待つしかない。

 

またNetflix制作ドラマ版『呪怨 呪いの家』でも監督を務めている。

久しぶりに心から怖い!と思った日本作品なのでこれも必見だ。

 

『きみの鳥はうたえる』主演は柄本佑だが、実質、石橋静河、染谷将太の3人が主演の映画といえる。

柄本佑、染谷将太は元々三宅監督とは友人だったらしく、石橋静河はタイミングよく知人の紹介されたらしい。

 

原作より先に映画を観てしまったため、原作を読んでも主人公3人は柄本佑、石橋静河、染谷将太でしか考えられないというくらいハマっている。

『きみの鳥はうたえる』(映画) あらすじ、ネタバレなしの見どころ

あらすじは超簡単に書くと

 

舞台は現代の函館市。

書店でバイトしている僕(柄本佑)と無職で休職中の静雄(染谷将太)は、同居しながら好きな映画、音楽、酒を楽しみ、若者ならではの刹那的な生活をしていた。

ふとしたきっかけで僕は、同じ書店バイトの同僚、佐知子(石橋静河)と遊ぶようになる(体の関係も)。

そこに帰ってきた静雄も加わり、それから3人は酒を飲み、笑い、踊り、ビリヤードをし、いつ終わるとも分からない青春ともいえるかけがえのない時間を過ごす。

サッパリとしていてどこか妖艶な佐知子、その佐知子のことが好きな静雄、自分の気持ちを表に出そうとしない僕。

 

3人の関係は夏の終りと共に、変わろうとしていた…

 

みたいな感じ。

あらすじなんて難しい。

 

冒頭に書いたとおり、事件という事件はない。

原作で最大の事件となる、ある事件もごっそりカットされている。(代わりはあるが…)

人と人が出会い、ふれあい、同じ時間を過ごす、ただそれだけだ。

 

要は僕らの日常生活の延長のような話だ。

とにかく何も考えずに、僕、静雄、佐知子との時間を楽しむ、そんな映画だ。

 

日常生活と書いたが、この映画には、映画でしか味わえない特別な時間が流れている。

特別なフィクション感、キメキメの映画的構図、そういったものなしでも映画は映画となり得る、そんなところも是非観てほしい。

 

『きみの鳥はうたえる』(映画)ネタバレ考察&評価(ここからネタバレあり)

『きみの鳥はうたえる』2.0/10うんこ (10うんこ=クソ映画)
”空気のような男”になり損なった男にグッとくる映画

 

まず初めに感じたのは佐藤泰志原作映画としては、ものすごくライトで捉えどころのない映画だなあということだ。

『函館3部作』と比較してとても軽やかなのだ。

画の種類からして違う。

『海炭市叙景』とは季節そのものが違うが、真夏が舞台の『そこのみにて光輝く』と比べても土着的ではないのだ。

本当に現代の、良い言い方ではないが、ドライでライトな空気がそこには流れていた。

 

映画は土着的なものとの親和性が強い

その国や地域の特色、社会問題、人間性、生命の強さなどがより濃く表現できるからだろう。

海外に開かれた映画を目指すと逆に閉じた映画になる気がする。

 

素晴らしい作品はたくさんある。

今村昌平作品群や柳町光男の『さらば愛しき大地』などだ。

だがどうしても土着的な映画がもつ息苦しさに僕は魂がすり減る気がして、何度も観れないし、気持ちに余裕がないと辛かったりする。

それは前述した通り、僕が田舎出身で小さい頃(90年代)にそんな空気を感じていたからだろう。

県庁所在地でさえそんな空気だったのだ。

 

だから僕はすぐにこの映画が気に入った。

観ていて気持ちがいいのだ。

本当にとらえどころはない。

何も起きないから。

だからこそ、フィクション感が強くないからこそ、今自分が存在しているこの世界と地続きで”僕”、静雄、佐知子が存在しているんではないかと、より強く感じられたのだ。

 

だが本当に最後の最後、事件は起きる。

原作にある静雄の母殺しではない。

佐知子の顔事件だ。

そし謎を我々に残して映画は唐突に終りを迎える。

ジャッ

バッ

カッ

擬音はなんでもいいがそんな感じだ。

 

あの唐突な終りに僕はひどく魅せられてしまった。

ストーリーというだけではなく、画が突然途切れるということに僕はものすごく快感を感じる。

気持ち悪いな…

 

あれはなんだったのだろうか、それは後述する。

『きみの鳥はうたえる』映画と原作小説との違い

映画鑑賞後、原作小説を読んだ感想としては、ほとんど同じという印象。

つまり映画はかなり忠実に原作小説の空気感を表現していると感じた。

あのライトでドライな文体。

 

僕が昔書いたある文章で、他人から言われた感想に「人と人が永遠に触れ合うことがない感じ」がするというのがあった。

僕にとっての『きみの鳥はうたえる』の感想もそれだ。

その人もいい意味でそれを言ってくれたみたいだが、僕はこの映画にもそんな印象を覚えた。

 

主人公3人のキャラクターや関係性もほぼ一緒だ。

受ける印象も映画を先に観たバイアスはあるだろうが、ほぼ同じだ。

まあ”僕”は柄本佑よりは男前でクールそうな感じがするし、佐知子は映画の方が柔らかく、優しい印象だが、誤差みたいなものだ。

 

ということで大枠はほぼ同じな印象だが、細かい部分と最後の展開に大きな違いがある

『きみの鳥はうたえる』映画と原作と映画の違い

    • 原作では見舞いに行った静雄が精神病の母親を病院で絞殺するが、映画で静雄は見舞いにこそ行くが事件は起こしていない。(少なくとも映画内の時間では。そしておそらく今後も起こさない)
    • 原作では、事件を起こした静雄に佐知子が会いに行くのを”僕”は改札で見送っておわる(小説内の2人が会っている最後の場面)が、映画では静雄と付き合うことになったと報告する佐知子を”僕”は一度は祝福して別れるが、やっぱり佐知子を追いかけていって自分の気持ちを素直にぶつけて終わる。
    • 原作の舞台は東京国立周辺だが、映画は函館市。
    • 原作では静雄の母親は直接登場しないが、静雄の兄は直接静雄に会いに来る。兄とは”僕”も佐知子も会うことになる。映画では逆で、兄は直接出てこないが、母親が登場して”僕”と会うことになる
    • 原作でも映画でも店長は佐知子と付き合っていたが、原作の店長は映画よりもっと”僕”にとっての歳上世代の嫌悪の対象といった感じ。映画はもっと理解ある大人だが、原作ではあくまで厳しい上司という印象だ。佐知子のことで”僕”と何か話したりもしないので、映画より比重が軽い。
    • 映画版でなにかと”僕”ともめる書店員の森口。そもそも原作では森口という名前はなく、”専門書のコーナーの同僚”としか書かれない。映画でも原作でも、万引きのことでもめて、一方的に”僕”にボコボコにされる森口(専門書のコーナーの同僚)だが、映画では直接森口が復讐しに来るのに対し、原作では”専門書のコーナーの同僚”の仲間ち思われる顔の知らない2人組に立ちション中に襲われてしまう。
    • 映画に出てくる書店員のみずきというキャラクターは原作にはいない。映画オリジナルである。
    • 原作では静雄が”僕”の家で同居し始めた日、タイトルの元となっているビートルズの『アンド・ユア・バード・キャン・シング』を静雄が”僕”のために歌ったという記述があるが、映画ではビートルズにさえ一切触れることもない。
    • 原作ではアラというバー(?)の店主が出てくるが、映画にはいない。 ”僕”の知り合いであるアラの店が3人の行きつけの店だし、映画で静雄と佐知子が行くキャンプも、原作ではアラが常連を誘っていった海水浴である。

その他細かい違いはもちろん多数ある。

『きみの鳥はうたえる』(映画) 空気のような男

監督三宅唱が原作を読んで惹かれたフレーズは

静雄が母親を見舞って帰ってくれば、今度は僕は、あいつをとおしてもっと新しく佐知子を感じることができるかもしれない。

すると、僕は率直な気持のいい、空気のような男になれそうな気がした

という部分らしい。

だから「そんな風通しのよい、気持ちのいい映画を目指した」と言っている。

実際このフレーズはラストの顔面事件前にモノローグとして使われている。

 

映画内の”僕”は一見本当に空気のような男だ。

まるで気持ちや意志がないように周囲に振る舞っている。

彼の行動が理解不能な人もいるだろう。

 

僕は”僕”の感じがなんとなく分かる。

要はすかしてるのだ。

かっこつけて、自分が傷付かないようにしている臆病者だ。

 

一見、ある意味友達以上ともいえる、静雄のことを思っての振る舞いにもみえる。

静雄は大切な存在だし、自分より静雄の方が佐知子を大切に思っている。

 

そう自分に言い訳して、面倒から逃げているだけなのだ。

直接的な精神的対立を避ける、ある意味本当に現代の若者まんまだといえる。

 

”僕は率直な気持のいい、空気のような男になれそうな気がした。”

これは僕も好きな一節だが、嘘にしか聞こえない。

そう思い込もうとしているようにしか思えないのだ。

 

なぜなら普段僕もやってしまうからだ。

本当は自分の意思があるのに、それを表に出さず、相手の言ったこと、やったことをサラリと受け流したり、そのまま承認する。

とにかく素直になることに拒否反応が出てしまい、「ああ、いいよいいよ、何でも好きにしなよ」という態度をとってしまう。

後海することは分かっているのに、そうせざるを得ない、自分を止められない。

むしろその「ああ、だめだ…」という感じが快感にさえつながっているのではないかとも思う。

そしてその全て受け入れる感じ、まるで空気のような男になることが、カッコいいと思っている。

もう一種の病だ。

 

”僕が頑なにキャンプに行こうとしないのなんてすごく分かる。

行きたいのだ、心の奥底では。

でもそんなのには行かないという自分を選んでしまう。

 

初めて静雄と佐知子が出会った自宅アパート内で、僕はまだ知らなかった静雄を知ることになる。

時折は静雄を観察している。

佐知子をとおした新しい静雄を知る喜びは実際そこにあったのだろう。

女性といるときの男友達というのはどこかいつもと様子が違うものだ。

 

が空気のような男になろうとすることで、3人の関係はギリギリのバランスで保たれていたのだと思う。

“僕”がそうするから、静雄も佐知子もどこか本心を出さことなく、幸せなかけがえのない時間の流れに身を委ねる。

幸せであり不幸せでもある関係。

 

だがそんな夏はいつまでも続かない。

モラトリアムは静雄と佐知子の決意で終りをむかえた。

 

カフェで、静雄と恋人として付き合うと”僕”に報告する佐知子の顔はぐちゃぐちゃだ。

複雑な気持ちが渦巻いている。

だが思いを伝える最後の機会でまで、空気のような男になって本心を欺いた”僕”。

そして再度”僕”の肘をつねることで、目に見える区切りをつけた佐知子。

 

だが肘をつねるという出会いと同じアクションによってスイッチを入れられてしまった”僕”に、ついに変化がおきてしまうのだ。

初めて素直に本心をすくい取り、行動を起こした”僕”は、空気のような男になり損ねて映画は終わる

 

ありふれた展開ではある。

溜めて溜めて最後に何かが爆発する。

だがそういう映画が僕は好きだ。

愚かな主人公が、もっと愚かな行動であったとしても、何かを起こそうと動き出す。

そこにはやはり心を動かされる何かがある気がする。

 

ようやく鳥かごから出た”僕”に感動せずにはいられなかった。

 

きみの鳥はうたえる4

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『きみの鳥はうたえる』(映画)青の美しさ

映画『きみの鳥はうたえる』は明け方や夜の美しさが印象的だ。

舞台が函館なのだが、そんなことを事前に意識しないで観ると、現代の東京、それこそ国立あたりで撮ったような印象を受ける。

そんな普遍的な景色、空気がそこにはある。

 

そういった夜や明け方では青が印象的に使われていて美しい。

この映画で最も評価が高いと言えるクラブのシーンではおそらく青い照明を使っているのだろうが、その他のシーンでは後処理で部分的に色を青に寄せていることが多い(おそらく)。

きみの鳥はうたえる2

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また夜は街の灯り、信号などの光による玉ボケも青が美しく映える。

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明け方の空気感の演出にも青は一役買っており、気持ちのいい空気を感じられた。

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『きみの鳥はうたえる』(映画)タイトルのもつ意味

タイトル『きみの鳥はうたえる』はビートルズの『And Your Bird Can Sing』を和訳したものだ。

だがこのタイトルは不思議だ。

意味が分からない。

原作と映画の違いで触れたが、原作にはビートルズ好きの静雄が”僕”のために歌うという場面がある。

映画には一切このシーンもないので、映画のみ観た人には大いなる謎だろう。

『And Your Bird Can Sing』はジョン・レノンによって書かれた曲で、ジョン自身は嫌いな捨て曲らしい。

歌詞の意味もジョン・レノン自身が明かすこともなく、謎が多い曲だ。

だが(歌詞と和訳自体は調べてもらうとして)内容的にどうやら歌詞に出てくる”your bird”というのはジョン自身なようだ。

そう考えると『And Your Bird Can Sing』はジョン・レノン自身の現状に対する不満が現れたような内容に感じられる。

その対象がその時の妻(オノ・ヨーコではない)なのか、リスナーなのかプロデューサーなのか、それは分からない。(この点もいろんな説があるみたい)

誰も自分を本当に理解してくれない、そんなジョンの思いが聞こえてきそうな歌詞だ。

 

佐藤泰志がこの曲を小説内に持ち込んだ理由はまったく分からない。

小説内でも言及されるのはほんとに1節程度だからだ。

もしかしたら佐藤泰志が、ただただこの曲を愛していただけなのかもしれない。(ジョン自身は嫌いでもファンからは人気がある曲みたい)

 

だが少し深読みして考察すると、この”your bird”と”僕”を作者は重ねたのではないかと思えてくる。

何の不満もないように隠しているが、自己承認欲求にあふれる青年時代。

だが思ったように人は自分を理解してはくれないし、思ったように動いてもくれない。

だからその現実を見ないように、モラトリアムを過ごし、本心をさらに隠す。

そんな”僕”もしくは佐藤泰志自身の叫びを象徴するような曲がこの『And Your Bird Can Sing』だったのではないかと。

 

結局人間は本当に親しくしていても、お互いを理解しあえない。

僕自身もそう思っている。

だが、映画でラスト、”僕”はそんな現状を打ち破るように見事にうたってみせたのだ。

 

原作でこの曲を”僕”に歌ってくれたのが静雄だということを考えると、さらに泣けてくる。

ラスト、窓の外を眺めている静雄の目に写っているのは、向かい合う”僕”と佐知子な気がしてならない。

 

きみの鳥はうたえる3

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『きみの鳥はうたえる』(映画)佐知子の最後の表情の意味することは?

ついに最後の最後で本心をさらしてしまった”僕”。

それに対する佐知子の表情がこの映画最大の謎だろう。

 

いい映画は簡単に人の気持ちなんて分からないものだと思う。

現実の人間は本心を表に出して生きていないからだ。

映画に実際映っているのは、生身の人間の外見だけだ。

そこから人間の内面を読み取るなんて至難の技だ。

しかも『きみの鳥はうたえる』はセリフも少なめだし、そのヒントをあえてカットしているように思う。

だから終始、内面なんて謎といえば謎だ。

 

というか内面なんてどうでもいい映画なのだ。

誰しもモラトリアムな時間を永遠に過ごすなんてことは許されない。

限りがあるからこそ光輝く青春に流れる贅沢な時間、空間を『きみの鳥はうたえる』は切り取っている

その時間に我々も身を委ねる映画だ。

 

そしてそこから飛び立つ”僕”を見守るのだ。

 

だから佐知子の答えはどちらでもいいのだ。

そこに重点を置いてないからカットしているのだと思う。

 

でも気になるのが人間心理。

実は三宅唱監督自身が書いた脚本には、監督が想定した答えが書かれていた。

だがあくまで監督が想定した脚本段階での答えだ。

 

「おれは佐知子のことが好きだ」

その瞬間、やってしまった、言うんじゃなかった、今告白したことこそが間違いだったと、強烈な後悔の念に襲われるなかったことにしたい。恥ずかしくてたまらない。痛い。さっと目を逸らして逃げ出したい。しかし、ようやく正直に自分の気持ちを伝えられたことで高揚しきった気持ちを抑えることもできず、佐知子の顔をただまっすぐみつめ続ける。佐知子は、これまでみたことのない僕の表情に驚き、戸惑う。愛の告白は嬉しい。でもそれ以上に、いまさら告白してきた僕の身勝手さが、信じがたく、呆れ、無性に怒りを覚える。と同時に、自分がもう、僕の気持ちには応えられないことを悲しくも感じる。胸がしめつけられ、なにも言葉が出てこず、じっと僕の顔をみつめ続ける。

『きみの鳥はうたえる』決定稿-月刊シナリオ2018年9月号-

 

脚本には心理描写は書かないというのが一般的なルールだ。

映画は目で観るものなので、心理描写が書かれていてもそれを直接映像にすることはできないからだ。

 

だが三宅監督は敢えて書いたらしい。

原作ラストの静雄の母殺しも最初は書いていたが、尺が長くなり、改めて小説の核を考えた時、ごっそりカットしたとのこと。

その核とは主人公3人のこと。

彼らが過ごす豊かな時間、雰囲気、幸福感を最も大切にしたとのことだ。

 

最後の事件をカットしたことで、「好きだ」というセリフだけでは役者陣が余計な戸惑いを覚えてしまうと思い、改稿した理由を丁寧に説明するために心理描写を書いたらしい。

 

だが三宅監督はあくまでそれを演技の指示ではなく、前提、出発点として書いた。

そこから実際の撮影ではどうするか、どうなるかは役者陣にかかっているということだ。

だから佐知子役の石橋静河がどう考えてあの表情になったのかは分からない。

 

きみの鳥はうたえる5

(C)HAKODATE CINEMA IRIS

 

映画の本質は脚本ではない。

映像になったものが全てであり、映画に刻まれた佐知子の表情が最終的な答えなのだ。

だからやはり映画の先の答えは、あの佐知子の表情を観た我々にある。

 

あの表情の先にある、”僕”、静雄、佐知子の人生を想像するのがこの映画のさらなる楽しみだろう。

 

 

おわりに

映画は時間の芸術だなんてよく言われるが、まさに『きみの鳥はうたえる』はそんな映画だと思った。

主人公3人といつ終わるか分からない贅沢な時間を緊張感をもって共にする。

そのために何回も観てしまうのだ。

 

それにしても柄本佑はベッドシーンが本当に多い。

正直顔だけ見たら全然かっこよくないが、不思議な色気があるのだろう。

 

そこでいうと石橋静河も本当に不思議な魅力がある。

決してすごい美人というわけではないと個人的には思うのだが、一つ一つの仕草のせいだろうか、いつの間にか好きになっている。

原作のような精神的に自立した女性でありながら、石橋静河が演じると、ある時ふと消えてしまいそうな繊細さも加わっていた。

 

そしてやはり一番すごいと思うのは染谷将太だ。

この人は本当に不思議な存在感だ。

何を考えているか分からないという言葉がぴったりな俳優だ。

なのに画面にぴったりフィットしてくるというか、うまく言えないのだが違和感があるのに映画としてはきれいに成立しているのだ。

 

そういえば三宅監督のインタビューで面白かったのは、「もし静雄が母親を見舞いに行くシーンの撮影日が雨だったら、原作通り、母殺しをしてしまう脚本に書き換えばければならなかった」と言っていたこと。

(もちろん冗談というか大げさに言えばという接頭語があるのだが。)

というのも原作で静雄は”僕”に「母親が入院している間雨が降らなければいい」と願いを話す。

なのに無情にも静雄が病院に到着した翌日から雨が降り続き、静雄は気分が堕ちるのだ。

 

もちろんそれだけが母殺しをした原因ではないが、三宅監督は天気によって気分が変わるということが静雄には、ひいては人間にはあると解釈していたのだ。

染谷将太演じる静雄には本当にそんな雰囲気がある。

 

病院の美しい光は素晴らしかったが、撮影日に雨が降っても面白かったのになあ、なんて思ってしまう。

 

 

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※2021/2月現在の情報です。最新の配信状況は各サービスサイトでご確認下さい。